CCI FUTURE IMPACT Forum for SDGs

各専門家からみた現在の状況とこれからの持続可能な社会について、
CCI FUTURE IMPACT Forum座長の大澤真幸氏と
あらゆる分野の専門家からなるメンバーの対談をお届けしてまいります。

今回は、Part1Part2に引き続き、
フランス文学を専門とする野崎 歓氏と大澤 真幸氏のスペシャル対談のPart3をお届けします。



【第8回】フランス文学研究者からみた現状と持続可能な社会とは
フランス文学研究者 野崎 歓氏 × 大澤 真幸氏

Part3(全3回)
文学の力とは。文学の持つ本当の意味とサステイナビリティとは


-野崎氏:
大澤さんが昔、「時代の潮流の精神史の捉え方」として、大きく3つに分けていましたよね。「理想の時代」、「虚構の時代」、「不可能性の時代」というふうにまとめていた。そうすると、村上春樹はどうなんだろう。三島や、『同時代ゲーム』あたりまでの大江は「虚構の世界」でしょうか。しかし、大江さんはその後、「不可能性の時代」まで長寿を保って作品を書き続けている。「虚構の時代」に可能だったような強烈なインパクトを及ぼすことはむずかしいにせよ、それに耐え続け、書き続けるということになる。村上春樹はどこに入るのでしょうか。


-大澤氏:
村上春樹は「虚構の時代」から「不可能性の時代」を越境しようとしている感じだと思います。村上春樹の作品で『世界の終わり』と『ハードボイルドワンダーランド』というのがありますが、二つのストーリーが並んでいくような作品です。『ハードボイルドワンダーランド』はわりとリアリズムで描かれていて少しSF的な要素が入っている。一方、『世界の終わり』はファンタジックな作品なのですが、最後にその二つの話が合流する。主人公が「世界の終わり」という名前の閉じられた世界から脱出するというストーリーなのですが、最後に彼らは脱出しないことを選ぶ。それは、ある意味で「虚構の時代」の内側に留まることを選択したように見えるわけです。そこから話が進んで脱出する話になっていき、最終的に『1Q84』ですよね。偽物の「1Q84」に入ってしまった主人公たちが「1984」に戻ってくる。虚構からリアルなものへ戻ってくるという話になる。村上春樹という人は「虚構の時代」を100%引き受けた最初の作家だと思う。そこから「不可能性の時代」へと独特な形で突き抜けようとしているわけですが、それが成功しているかどうかはわからないです。


-野崎氏:
「虚構の時代」の終焉をとても魅力的に物語化した作家という感じもしますね。その後にやってきた「不可能性の時代」は時間的にも長かったような気がします。今、コロナ禍とともに、コロナ禍の前からその状況はすでにあったのかもしれませんが、ペシミスティックな気分が広がって、ある種の「空白」、「空虚」、「ゼロの時代」になってしまったのではないかという気もする。

しかし、そうした図式も結局はふたたびまた反転していく。ある種のレジリエンスといいますか、もう一度理想というものが問われるのではないかと思っています。村上春樹よりもずっと若い世代、今の若者たちの表現が出てくるのだろうと。我々とはまた違う場所からそれが出てくることを待つしかないですが、フランス大革命の後がそうであったように、どこの国の文学も一度社会が危機に瀕したところからロマン主義的なうねりのようなものが出てくる。危機が全般化すればするほど、それを糧として一種のクリエイティビティが働くのではないかと思います。


-大澤氏:
そうだと思います。ただ、求めてはいるが「理想」の内容は中々出てこない。「理想」という形式を求めていて、「理想」の内容、コンテンツがない状態なのです。私は今、「理想」に飢えている状態だと思います。


-野崎氏:
「形式」と「内容」という点に関していえば、私は三島由紀夫と村上春樹というのは、ある種連続的に読める作家だと思っているのです。いずれの作家も文体に全くぶれがなく、デビューの頃から完成した非常に端正、典雅な文体を持っている。ある意味で三島由紀夫は読みやすいですよね。すっと読めてひっかかりがない。これと正反対なのが大江です。大江健三郎の初期の文章のむちゃくちゃな熱量にはすさまじいものがある。彼は森から出てきた田舎者として、共通語に対する強烈な抵抗感を持っていると感じるし、外国文学に学び、既成の日本語の外に出て、新しい言語を作るという意欲に燃えている。
現在の言語状況に対するレジスタンスという形で出てくるものが、これからの理想の文学になるのではないか、そんな気もするのです。願望をこめてですが。


-大澤氏:
そういうところに文学に対する期待はあると思います。これだけ長く文学の分野で生き延びている大江さんは、その種の新しい精神に対する答えを与えてくれる手がかりになるかもしれません。

話は変わってSDGsについて伺いたいのですが、今のお話と関連付けてお話すると、若い人だけではなく、多くの人が「自分たちは意味のある仕事をして人類の理想に向かっている」と信じたいのだと思うのですが、しかしその理想は何であるかが見えていない。
SDGsはサステイナブルな世界を作るためにいくつもの目標が挙げられています。そのために世界の全ての人、政府、企業もそれを念頭に置いて活動していくという時代になってきました。それが私たちにとって、あるいはこれからの世代にとって、求めている理想の代わりになり得ているのでしょうか。人を惹きつけるものになっているのであれば素晴らしいことなのですが。


-野崎氏:
これだけ短期間のうちに企業の意識の在り方もずいぶん変わりましたしね。その変化の大きさと広がりには驚くべきものがある。私と大澤さんは同世代の人間として、右肩上がりの成長神話のど真ん中で育ってきたでしょう。大量生産、大量消費の真っ只中でしたものね。それがこんな風に変質していくというのは、面白いな。長生きはするものですよね。刺激的な体験に事欠かない。自分自身にとってはまったく違う価値観の登場という部分もありました。要するに自分もまた結局のところ、高度成長のコンテキストの中で生きてきたのでしょう。それに代わる新しい生き方がひょっとするといま、見えてきたのかもしれない。

ただし、私にとってはサステイナブルであるべきものとして一番気になるのは「日本語」なのです。これを何とかしなくてはという気がします。子供と話をしていて、少し固い言葉を使うと「そんな言葉、誰も使っていない。ネットでも見たことがない」といわれたりする。長い年月をかけて蓄積され、育てられてきた日本語の豊かさはスマホやネットの時代には急激に平板化され、見えにくくなってしまっているのではないか。日常の暮らしの中ではめったにお目にかかれないような「言葉」が、山ほど自分の身体の中に入っていないと、「言葉」は真にサステイナブルな力をもたないのではないかと思うのです。
そんな「言葉」と出会うのは書物の世界、文学の世界であり、普段我々が話している言葉等は氷山の一角でしかない。それを支えている過去にそのまま直結していく「言葉」というもので潤されていなければ、「言葉」は貧困化してだんだん呼吸困難に陥っていくと思うのです。

すでに批判もなされていますが、新指導要領によって高校における国語教育が再来年から大きく変わろうとしています。一昨年、共通テストの新しいやり方のモデルが示されたのですが、自治体の広報文や駐車場の契約書を読み解くといったことになっている。
要するに、文科省は若者のリテラシーがなくなり、そういうものさえ読めなくなっているという現状に危機感を強めているわけでしょう。
とはいえ、そのようなものしか教えない教育をしていては、いよいよ立ち行かなくなってしまうのではないか。

「日本語」がどれだけ大事でどれだけ豊かな可能性を持っているか、それを伝えていかなければ日本の持続可能性自体、大丈夫なのかと心配になってしまっています。


-大澤氏:
フランス語をずっとやっていて、半分くらいの時間はフランス語を考えている野崎さんが日本語の危機を感じておられるのですから、いよいよ危機的状況なのだと改めて思います。
我々が日本語で文章を書き、それを次の世代、次の次の世代が読んだ際に、「まるで外国語のようで読めない」などと言われてしまっては困ります。物を考えるというのはただ概念があればよいというだけではなく、その概念が言葉と一体化していかないといけない。
例えば、サステイナブルという言葉もカタカナや英語で書いたりします。日本人にとっては、言っていることはわかりますが、人の行動を動かす程の表現になっているかというとそこまでではない。肉体化した言語、母語に近いものとの接続が必要です。
日本語の場合、漢字も含めて広い意味でいえば外来語の集合のようなものですが、その外来語が日本語として肉体化していくプロセスがあるのです。それがうまくいっていればいいのですが、ある時期からカタカナで外来語が入ってきた。最近では、そのカタカナの言葉と我々の肉体化している言語との間に乖離がありすぎると強く感じています。
例えば企業の関連でいうと、「コンプライアンスが大事です」ということがあります。それは大事ですね、と思うわけですが、「コンプライアンス」という言葉を使っている間は、その言葉がその人の倫理の根幹として入ってくるのかというとなかなか難しいと思う。

私は原則として外来語は日本語に翻訳したほうがいいと思っている。それをどのように訳せばいいのかと考えることによって肉体化することがある。ただその時に、野崎さんのように言葉の専門家からすると、日本語に直すと少し違うなと思うことがありますよね。例えば「écriture」。日本語で「文字」でいいかな?と思いつつ、少し違うなと。仕方がないので「エクリチュール」とカタカナで書くわけです。この場合、そのように深く読んだ人は、日本語の「文字」とは違うということを認識した上で「エクリチュール」とカタカナを使って表すわけですが、受け取る側は一度も肉体化することなくカタカナで「エクリチュール」という風に言葉にしていく。そうすると本当のしみ込んだ思考にはなっていかないのです。

これは専門的な言葉ですが、同じようなことが一般的な世界でも起きています。あまりにも次々とイノベーションが起き、新しいことが起きるので致し方ないところもあります。昔は「サイバースペース」を「電脳空間」などと訳していたものの、いちいち訳すのは面倒くさい。全ての言語を訳してはいられないわけです。たまに、文章の「てにをは」だけが日本語で、あとは全てカタカナだったなんていうこともあります。
しかし、日本語の共同体の中で、それが本当の意味での人を惹きつけたり動かしたりする原理にはなりにくい感じがします。


-野崎氏:
おっしゃる通りですね。工夫して訳語を作る努力がいたるところで放棄されてしまっている。
今回の状況の中でも、例えば「ロックダウン」という言葉。あれもよくわからなかったです。「ロックアウト」なら昔よく聞いたり使ったりしていたので、ついそちらのほうが口をついて出たりして。
状況の移り変わりがあまりに激しすぎて、いちいち立ち止まって「翻訳」することができなくなっているところがありますよね。しかし、そういう潮流にあらがう必要もあります。
今回、都知事が言った「3密」。これは国際的に評価が高いようです。「日本語はマジカルだ。魔法のようなあの短い表現によって食い止めたのだ」と。とにかく、日本語をやせさせてはならないという気持ちは強まる一方です。ネット社会というのも、結局は読み書き能力の深さ、活発さが物を言う社会のはずですよね。そこで生き抜いていく若い人たちこそ、文学を活用してほしい。日本語が狭まるということは、外出禁止令の中に自分を追い込んでいくようなものです。「言葉の豊かさを経験すること」が失われてはならないと強く思います。


-大澤氏:
よく英語でやればいいじゃないかなどといわれていますが、母語で考えられない、表現できないことを、英語であれば言えるなどということはありえないわけです。まずは母語の水準で豊かさがなければいけません。数世代経つと、我々が書いている普通の日本語も特別な訓練を受けた人しか読めない、なんてことになってしまったらと考えると心配です。
つまり、私たちがわざわざ本にして書くということは、同時代に生きている人たちだけでなく、後の世代の人たちにも読んでもらいたいという世代を超えた訴えがあるわけです。
やはり日本語の共同体がしっかりとしたものとして位置づけられ、サステイナブルなものであってほしいと思います。


-野崎氏:
そうなのです。共同体は言葉によって成り立っている。私はフランス語が専門ですのでフランスを見ていますと、ご存知のとおり移民が増えていますので、その子供たちをいかにフランス語という言葉の共同体に招き入れるか。教育の場では必死の努力を続けているわけです。
そういった時に先生たちが頼りにしているのは、結局17世紀以来の文学作品ということになるんですね。モリエールの喜劇やラシーヌの悲劇を生徒たちに演じさせたり。そういう意味では文学作品は役に立つのですよ。教育的役割は非常に重要だと思うのです。


-大澤氏:
おっしゃる通りですね。守るべき日本語に重要なものや豊かなものがなくてはなりません。ですから文学作品でたくさん良いものを残しておいてもらえると、それをコアにして考えられると思います。


-野崎氏:
もちろんコミュニケーションツールとしての英語の位置づけは否定できませんが、日常の英語レベルであれば自動翻訳でかなり翻訳できますよね。レベルがとても向上しています。コミュニケーション的な部分はこれからAIによってさらに変化していくのではないかと思っています。
このフォーラムでもぜひまたAIについて取り上げるといいと思います。AIも面白いですよね、我々はAIとどう協同していくのか、けっこう夢もふくらみます。翻訳家としては、将来ぜひAIと共訳してみたいものです。


-大澤氏:
ぜひフォーラムでもやりましょう。多分プラクティカルなコミュニケーションのレベルでいくと自動翻訳が発達してくるので、かなりAIはうまくいくと思います。
その上でプラクティカルな問題よりもさらに背後にあるような、複雑な理念や思想については自動翻訳してもうまく訳せないと思います。そのためのロゴス(言葉・意味・倫理)が必要になってくると思います。
この世界の中で少しでも精神的に豊かな共同体として生き延びたいと思うのであれば、ロゴスは守らなければならないと思います。


-野崎氏:
東大の社会学科では『ソシオロゴス』という雑誌を出していますよね。学生のころ、そのタイトルに強い印象を受けたのですが、まさにソシオロゴスですよ。それをいかに太らせ逞しくしていくか、という努力はどんな時代でも必要だと思います。
文化の蓄積や過去の豊かさが効いてくるはずです。


-大澤氏:
今蓄積しておけば100年後、200年後に効いてきます。今蓄積を止めてしまえば、後々の世代にとって日本語などどうでもいいということになってしまいます。


-野崎氏:
滅びるのは早いですからね。「AIと言語」というテーマはぜひさらに注目していきたいと思います。


-大澤氏:
文学や言語を念頭に入れ、それにまつわるAIについてもフォーラムで議論できればと思います。本日はどうもありがとうございました。





【対談者 プロフィール】


大澤 真幸氏
社会学者
CCI FUTURE IMPACT Forum座長

千葉大学文学部助教授、京都大学大学院人間・環境学研究科教授を歴任。
1990年代より、理論社会学の立場から現代社会の変容を総合的に分析し、論じてきた。著書に『ナショナリズムの由来』(講談社、毎日出版文化賞)、『不可能性の時代』(岩波新書)、『量子の社会哲学』(講談社)、『ふしぎなキリスト教』(橋爪大三郎との共著、中央公論新書大賞)、『自由という牢獄』(岩波書店、河合隼雄学芸賞)、『日本史のなぞ』(朝日新書)など著書多数。個人思想誌『大澤真幸THINKING「O」』(左右社)主宰。現在、『群像』(講談社)誌上では、世界史の論理構造を解明する評論「〈世界史〉の哲学」を、『本』(講談社)誌上では、動物社会との比較の中で「人間」の本質を考察する「社会性の起原」を、それぞれ連載中。


野崎 歓氏
東京大学名誉教授・放送大学教授
CCI FUTURE IMPACT Forumメンバー

東京大学文学部卒。東京大学大学院人文科学研究科博士課程中退。専門はフランス文学・映画論。
著書に『ジャン・ルノワール 越境する映画』(青土社、サントリー学芸賞)、『赤ちゃん教育』(青土社、講談社エッセイ賞)、『フランス文学の扉』(白水uブックス)、『谷崎潤一郎と異国の言語』(人文書院)、『異邦の香り―ネルヴァル「東方紀行」論』(講談社、読売文学賞)、『フランス文学と愛』(講談社現代新書)、『翻訳教育』(河出書房新社)、『アンドレ・バザン―映画を信じた男』(春風社)、『夢の共有―文学と映画と翻訳のはざまで』(岩波書店)、『水の匂いがするようだ――井伏鱒二のほうへ』(集英社、角川財団学芸賞)など。訳書にトゥーサン『浴室』(集英社、ベルギー・フランス語圏翻訳賞)、バルザック『幻滅』(共訳、藤原書店)、サン=テグジュペリ『ちいさな王子』、スタンダール『赤と黒』、ヴィアン『うたかたの日々』、プレヴォー『マノン・レスコー』(いずれも光文社古典新訳文庫)、ウエルベック『地図と領土』(ちくま文庫)、バザン『映画とは何か』(共訳、岩波文庫)など多数。長年の訳業により第26回小西財団日仏翻訳文学賞特別賞を受賞。