CCI FUTURE IMPACT Forum for SDGs

各専門家からみた現在の状況とこれからの持続可能な社会について、
CCI FUTURE IMPACT Forum座長の大澤真幸氏と
あらゆる分野の専門家からなるメンバーの対談をお届けしてまいります。

今回は、Part1に引き続き、
フランス文学を専門とする野崎 歓氏と大澤 真幸氏のスペシャル対談のPart2をお届けします。



【第8回】フランス文学研究者からみた現状と持続可能な社会とは
フランス文学研究者 野崎 歓氏 × 大澤 真幸氏

Part2(全3回)
コロナ禍は「文学の再起動」を後押しするか、「文学の危機」が加速するか


-野崎氏:
先日、岡田暁生さんが最近書いた『音楽の危機』という中公新書を送ってくださいました。音楽好きのあいだでは囁かれていたことですが、この状況となって「合唱」という形態は当分許されなくなるだろうと。そうすると年末恒例の「第九」ができないのではないかということなのですね。第四楽章の合唱が禁じられてしまうわけですから。
岡田さんは第九の持つ意味を論じつつ、それが演奏できないというのはどういう意味を持つのかという主旨の本を書かれていました。岡田さんは音楽をライブと録音ではっきり分けていて、本来音楽は一つの場を全員で共有するライブ環境でないと成り立たないとおっしゃっています。岡田さんにとっては「場の共有、同時性の共有」が音楽を作るのですが、そこで文学についても触れています。
文学の場合であれば、一人で誰とも会わずに読むのが常態であるから、このような要旨に非常に向いた形態であるといえると言っている。確かに、コロナ禍においても文学作品を読むこと自体に困難はない。しかし、今回の状況が人々に、本を手に取って文学に親しむことを促しているだろうか? 今回の状況は「文学再起動」に繋がるのかどうか。


-大澤氏:
種類によると思いますが、本は意外と売れています。音楽ですと家でも聞けるものの、ライブであったりコンサートであったり特別な体験ということでは影響があるかもしれませんが、本は家で読めることもあり、販売はまあまあいい状態であると聞いています。コロナ禍なので健康関連の本が売れるのかと思ったらそうではなく、実用本よりも教養書のような内容の本の方が調子がよいと聞きました。その流れで行けば文学も復活する可能性があるかもしれない。売れ行きの問題もありますが、文学というものが我々の精神的危機にどれくらい対応できるかという問題。本質的な問題としては、文学だけではなく音楽等もそうですが、そういった精神的危機に対して応答できるものが、文学その他にあるのかということだと思います。
先程『ペスト』の話が出ましたが、皆がそれを読むということは、そこに何かを求めているのだと思うのです。それだけで解決したかどうかはわかりませんが、少なくとも文学に対しては、救いといいますか、自分たちが求めている精神的な欠落に対して、何かを埋めてほしいという思いがあるのだと思います。今回のように文学を含む様々な想像力の範囲を逸脱するようなことが起きている時に、それに対して文学がさらに上回る答えを出せるかどうか。今のところの感触としてはいかがですか?


-野崎氏:
文学に対するポジティブな欲求、期待というのがある程度拡がっているのではないか、シリアスな読書を求める欲求が生活の中で出てきたのではないかということをおっしゃっていただいて、ぜひそこに期待をもちたいと感じます。
大学生の息子の様子などを見ていますと、本を読まない人間にとってこの状況がどれだけ退屈なのかよくわかるんですね。つくづく気の毒になってします。ゲームやネットだけではさすがに限界がある。それだけでは飽和状態になってきてしまっています。
しかし、多くの若者には本を読む習慣がない。ちょうど今日送られてきた週刊誌に心理学者が大学生の読書量について調査した結果が出ていまして、その調査によると本を2時間以上読む学生もごく一部いますが、1日0時間という学生が約50%。
そういう学生たちはどうやって読書というものに入っていけばいいのかがわからないのです。興味のありそうなものを渡しても、親しむことができない。今回の状況変化によって少しでも本を手に取るようになるかということは確かにあるでしょう。しかし一方で、目先の短絡的な暇つぶしはスマートフォンが与えてくれる。そこから先に自力で精神世界を広げていくことが、なかなかできないんですね。


-大澤氏:
我々から見て、若い人も含めて読んでもらいたい本はたくさんあります。しかし彼らが直接対面している問題とその本に書いてあることの間は、何となく繋がっているかもしれませんが、その繋がりはすぐには見えない。我々もそうじゃないですか。若い頃は「こんなもの興味ない」と思っていたものに対して、取り組んでいる内にだんだんと興味が出てきて、より深まっていく。後々繋がってくることがわかるわけです。
今回のコロナ問題は若い人達にとっても直面している問題です。恐らくは彼らも、どこかそこに「手をしっかり洗う」ということよりも深い何かがある事はわかっているのですが、では早速、例えばサルトルを読めば答えがでてくるかといえばそうではないわけです。彼らが目の前に直面している問題と、その先にある思想的な問題、文学的な問題を繋いでやらなければならないと思うのです。
このように野崎さんとお話して情報発信しようと思うのはそういった背景もあります。

私は専門が社会学なので余計にそうなるのですが、大きな出来事が起こるとその年のシラバスに書いてあることを全く白紙にし、今起きた出来事に関連させた授業を行ってきました。社会学の場合は特にそうです。彼らは現状の事が気になっているのに、100年、200年前の社会の話をされても今の事に対して答えがなくては何となく釈然としない。現状の問題をやっていく中で、例えば自然とマックス・ヴェーバーの概念を使って考えると現状がより深く見えてくるのだというようなアプローチをすると、「じゃあ、ヴェーバーを読んでみようか」と思うのではないかという希望的観測の元、取り組んでいます。少なくともこういう時にきちんと学問の力を示さなければならないと思っています。


-野崎氏:
それが、社会学が、若者たちに人文系の学問の中で唯一といっていいくらい支持されている理由なのだなと端的に思いました。自分の目の前の現実、自分を取り巻いている現在の環境と直結する生々しさを持ち得る学問なのだということでしょうね。その事が学生なりに最初から見て取れるので、学生が皆こぞって社会学に行ってしまう。現実と相関わる回路を持っているのが重要なのだと思います。
私のやっている外国文学の研究や翻訳、受容というのは、そもそも対象が空間的にも遠いし、またそれに打ち込むというのは逃避的な側面ももつことですから、目の前の現実を一旦「括弧」に入れてしまわなければなりたたない。
それはこの時代では不利になるでしょうけれども、しかし、我々の先輩たちの時代などにはそういうものこそが求められもしたわけで、仏文科がいろいろな私立大学に創設された。時代の変化とともに栄枯盛衰が映し出されている気がしています。ともあれ、外国文学や古典文学を読み、親しむということは文化の活性化にとってとても大事なことではないでしょうか。それが押しつぶされるような社会には未来がないだろうと思う。
つまり、未来を切り拓いていくためには、過去をしっかりと受け継いでいくことが重要です。「未来だけしかない未来」というのは色々なレベルで崩壊寸前の社会になってしまうはずだと思うのです。
と同時に、「文学はどういう点で答えられるのか」というと難しいのですね。私のところにも、「今、読書をするには絶好のチャンスなので、どういった本を読めばいいのでしょうか?」といったアンケートがたびたび来るのですが、さて何を読むべきなのか。カミュの『ペスト』がこれだけもてはやされるのは、あれが例外的なほどいまの状況に直結して見えるからなのですね。
私がすぐに思いつくのは『デカメロン』です。14世紀の末に黒死病の大流行があった。その真っ只中で書かれた作品であることは間違いないわけなのです。もちろん『デカメロン』はヨーロッパ文学史上の画期的な傑作であり、本当に素晴らしい作品だと思います。いま読んでも、高雅な笑いとエロスの世界を楽しむことができる。そこでついこれを「今読むべき本」としてアンケートに回答したりするのですが、でも考えてみると『デカメロン』には、ペストの話はほとんどでてこないですよね。


-大澤氏:
隔離されている時の話ですからね。


-野崎氏:
そうなのです。みんな逃げてきてしまっている。登場するのは貴族ばかりですから、勝手に別荘がある安全な所に避難している。「移動はしてはいけない」と言われている現在とはまったく違うのです。
唯一冒頭のところで、疫病によって悲惨な状態になったフィレンツェ市内の様子が描かれていて、これは本当に迫力があります。とにかく治療する手立てがまったくない、罹患したらほとんどはそのまま死んでいく疫病です。政治家は無能ぶりを晒すほかないし、聖職者の説教も何の役に立たないことがすぐにわかってくる。従来の権力の威信が地に落ちて、完全なアナーキーに近づいていったということが最初に出てくる。これは戦慄的な状況ですよ。

その状況に対し、『デカメロン』に登場する貴族たちは、いわば徹底的な逃避を敢行する。だれもよせつけず、別荘に仲間たちだけで集ってそこで人工的な別世界を作り、互いに物語に打ち興じるわけですよ。しかも面白いのは、そうやって語られる物語が、そのまま現代の小説に直結するようなまったく新しい「語り」の文体というものを作り出した。そのことによって『デカメロン』は中世末期から、ルネサンスへの扉を開くような、人生の喜びに満ちたいきいきとした文章表現を生み出したということなんですね。そのことはおそらく、ペストという極限状況と無縁のこととは思えない。隔離、逃避によって逆に、自分たちの日常に根ざした文学のありかを掘り当て、後世に語り継ぐに足るような魅力的な形式を磨き上げることができた。ペストとどのように闘うのか、どのように守れるのかというような実用性があるわけではない。しかし、600年前の話ではありますが、今の時点で読むと強い連続性を感じ、共感できる。それこそが「文学の尊さ」だと思うわけです。


-大澤氏:
文学史的にといいますか、人間の思考の歴史として興味深い現象ですね。
黒死病の蔓延の中で、ある意味それまでヨーロッパを支配していたある種の言説が持っている権威がペンディングになり、そのコンテキストに便乗して新しい文学が作られてきたということだと思うのです。ミシェル・フーコー風に言えば、たまたまそういう状況の中で起こったというよりは、恐らくペストという現象がリスクの配置のようなものを微妙に変えたのだと思う。そこで敢えて現代の文学にすることに意味の出てくるコンテキストが生まれた。直接ペストの事を描いているわけではないにしても、結果的にみるとペストが作ったコンテキストが文学的精神に与えた影響がすごくポジティブに効いたのだと思いますね。


-野崎氏:
その通りだと思います。


-大澤氏:
時期的にそうなったというより、無意識のうちにそういうものにうまく反応して出来たということかなと。
今現在も我々は新しい精神的状況の中にいて、この状況が我々の精神の探求の中でより深いものを生み出すコンテキストになるかどうか。そうなる可能性もあるし、逆の場合もあります。その辺りがどうなるかは現段階ではわかりません。

野崎さんが最初の方でおっしゃったことについて思ったのですが、我々の仕事は学問ですから、目の前に起きていることを「括弧」に入れて考えるところがあります。わざと「括弧」に入れた方がより深く考えられるので括弧に入れるわけです。一見本質的ではないことに対して目をつぶることで、より深く物が見えてくる。それをやっておいてから括弧を外すと、現状ももっと深く見えてきたり、より長いタイムスパンの中でものを考えられたり、歴史的スパンでものが見えてきたりということになってきます。括弧に入れる値とアクチュアルに向かう値との間の繋がりがつけにくくなっているのが現状だと思います。


-野崎氏:
社会学者が、あえて括弧を外すことで文学の論じ方にも刺激を与えるということは我々も感じています。例えば、先日大澤さんが出した『三島由紀夫 二つの謎』はよく考えられた、三島について透徹した視点を与えてくれる論考でした。
三島といえば、先日、『すばる』の三島特集を読んでいたら、三島と個人的に繋がりのあったアメリカ人のジョン・ネイスンという人が思い出を語っていました。「もし今三島が生きていてパンデミックの状況下にあったらどう感じていただろうか?」という問いに対して、ネイスンは「三島はこういう状況を好んだのではないか」と答えていた。大澤さんにご意見を伺いたいと思っていたのですが、この点どう思われますか?


-大澤氏:
たぶんそうでしょうね。金閣寺が燃えるのが嬉しいような人ですからね。しかし三島もコロナは予想できないでしょう。コロナは身体にダイレクトに関わる問題です。三島の肉体というのは、肉体と言いながら、極端に観念的な肉体です。
それに対して、コロナはもっとリアルな病気に関わるような肉体的問題ですから、この間に三島的には対応しづらいところがあるような気がします。しかし、間違いなくこのような状況をポジティブに利用できないかと思うような人だと思います。


-野崎氏:
確かにそうかもしれませんね。同時に彼は、「盾の会」結成後はきわめて観念的な天皇イデオロギーを集団によって実現しようとする方向をめざしたわけですが、彼の小説自体は個人主義の小説だと思うのです。特異さを抱えた個人のドラマに終始している。私としては、常に三島と対比して考え、読み直しているのは大江健三郎さんの作品です。大江さんをどう読み解いていくかについては、まだまだこれから大きな可能性がある。彼が残した仕事というのはやはり巨大なものだと思うのです。例えば、伝染病ということに関しても『芽むしり仔撃ち』という彼のまだ20代の、初期の長編が思い出されます。これは村全体に謎の伝染病が蔓延して村民たちがいなくなり、そこに疎開してきた少年院の子供たちが、彼らだけの共同体を作るという話です。
先程大澤さんが、三島というのは肉体性、身体性にこだわっているようで意外と頭でっかちなんだということをおっしゃったわけですが、大江さんの場合は身体の感覚があふれ出してあれだけ奥深い森の中の谷間の出身ですから、自然との付き合いにはおそろしく濃密なものがある。森に危機が訪れたり、あるいは川の水が黒くなったり、また再生したり。今でいうサステイナビリティということを体感して育っている人だと思うのです。人間を超えた「森」の息吹がみなぎっている気がして、三島と対比させながら大江作品から力を汲み上げたいと思っています。


-大澤氏:
大江さんはある時期までは常に若い人たちに読まれていました。その後もずっと書き続けていらっしゃいますが、文章的に後になればなる程、読みにくいというところがあります。一旦大江さんは落ち着いたと言われる時期がありましたが、あまりにも汲みつくされていない部分がある。もう一度大江さんが読み直される時期が来そうな気がします。

さらに新しい時代になってくると日本の文学はどうなっていくのですかね?
現役の方々、平野啓一郎さんや松浦寿輝さんもどんどん書いています。
この所、毎年のように村上春樹さんがノーベル賞を取るかもしれないという話になります。村上春樹は一番読まれている国民的文学、というよりは世界的文学で、ものすごく読まれている。
では、それの「文学の力」をどのように考えればよいのか。極論すれば、とても気持ちの良い読み物で暇つぶしには良いということになります。しかし、そうではない。非常に重要な意味があるのだという人もいる。その事を一番強くおっしゃっているのは加藤典洋さんですが、そういう風に見ることもできる。「文学」というものが難しい時期に来ているということを、村上春樹を見ていると感じます。


次回 Part3は、
「文学の力とは。文学の持つ本当の意味とサステイナビリティとは」
についてお届けします。


【対談者 プロフィール】


大澤 真幸氏
社会学者
CCI FUTURE IMPACT Forum座長

千葉大学文学部助教授、京都大学大学院人間・環境学研究科教授を歴任。
1990年代より、理論社会学の立場から現代社会の変容を総合的に分析し、論じてきた。著書に『ナショナリズムの由来』(講談社、毎日出版文化賞)、『不可能性の時代』(岩波新書)、『量子の社会哲学』(講談社)、『ふしぎなキリスト教』(橋爪大三郎との共著、中央公論新書大賞)、『自由という牢獄』(岩波書店、河合隼雄学芸賞)、『日本史のなぞ』(朝日新書)など著書多数。個人思想誌『大澤真幸THINKING「O」』(左右社)主宰。現在、『群像』(講談社)誌上では、世界史の論理構造を解明する評論「〈世界史〉の哲学」を、『本』(講談社)誌上では、動物社会との比較の中で「人間」の本質を考察する「社会性の起原」を、それぞれ連載中。


野崎 歓氏
東京大学名誉教授・放送大学教授
CCI FUTURE IMPACT Forumメンバー

東京大学文学部卒。東京大学大学院人文科学研究科博士課程中退。専門はフランス文学・映画論。
著書に『ジャン・ルノワール 越境する映画』(青土社、サントリー学芸賞)、『赤ちゃん教育』(青土社、講談社エッセイ賞)、『フランス文学の扉』(白水uブックス)、『谷崎潤一郎と異国の言語』(人文書院)、『異邦の香り―ネルヴァル「東方紀行」論』(講談社、読売文学賞)、『フランス文学と愛』(講談社現代新書)、『翻訳教育』(河出書房新社)、『アンドレ・バザン―映画を信じた男』(春風社)、『夢の共有―文学と映画と翻訳のはざまで』(岩波書店)、『水の匂いがするようだ――井伏鱒二のほうへ』(集英社、角川財団学芸賞)など。訳書にトゥーサン『浴室』(集英社、ベルギー・フランス語圏翻訳賞)、バルザック『幻滅』(共訳、藤原書店)、サン=テグジュペリ『ちいさな王子』、スタンダール『赤と黒』、ヴィアン『うたかたの日々』、プレヴォー『マノン・レスコー』(いずれも光文社古典新訳文庫)、ウエルベック『地図と領土』(ちくま文庫)、バザン『映画とは何か』(共訳、岩波文庫)など多数。長年の訳業により第26回小西財団日仏翻訳文学賞特別賞を受賞。