CCI FUTURE IMPACT Forum for SDGs


CCI FUTURE IMPACT Forum for SDGs 第8回目は、フランス文学を専門とする野崎 歓氏と大澤 真幸氏によるスペシャル対談をお届けいたします。



【第8回】フランス文学研究者からみた現状と持続可能な社会とは
フランス文学研究者 野崎 歓氏 × 大澤 真幸氏

Part1(全3回)
コロナ禍の状況と古典への注目


-大澤氏:
野崎さんは以前、コロナ禍にあっては我々のような職業の者には書きたいものを書き、読みたいものを読むという事が理想的な形で出来るはずなのにも関わらず、逆に非常に強い閉塞感を覚えるというお話をされていましたが、最近はいかがですか?


-野崎氏:
今まとめてくださった感じはずっとつきまとっています。非常にパラドクサルな時期が続いていると思っています。我々にとっては自分たちがずっとやってきたライフスタイルが、ある日いわば公認のものとなった。一日中家にいて、ほとんど人にも会わずに好きな事をやっていてもよいという状況。それで嬉しいかというと嬉しくない。自分でもどうしてなのか不思議な感じがします。

折に触れて、色々な方が書かれたコロナに関連する本を読んでいます。先日大澤さんにいただいた國分功一郎さんとの『コロナ時代の哲学』もすぐに読ませていただきました。
この冒頭が非常に面白かった。大澤さんが何から論じ始めるかなと思ったら、新約聖書のヨハネによる福音書に出てくるイエスの言葉、「Noli me tangere(私に触れるな)」について触れておられました。イエスが復活後に、マグダラのマリアに対して云った言葉ですが、そのよく知られた言葉が我々にとってこれほどまで肌身に触れるものになったことはなかった。大澤さんがそこに目をつけられたのはさすがだなと思いました。
この言葉はすぐに連想されたのですか?


-大澤氏:
わりとすぐに連想しました。有名な言葉でありながら、今までこの言葉について深く考えたことがなかったのですが、今の状況は「私に近づくな」という、お互いが近づかず触れてはいけないですよ、というイエスの復活の言葉と同じだと思いました。
一見どうでもよい言葉が、ある意味新約聖書の中の有名な言葉の一つとなって、ずっと人に刻まれていくというのは、思想的に十分自覚されていないものの、何か根本的な意味があるかもしれないなと。それとの関係で今回のことを考えていくと、色々メッセージが得られるのではと思ったのです。
この一節はヨハネの福音書には書いてありますが、ルカやマタイ、マルコなど他の福音書には出てこない。その一節がない代わりに他の福音書には「イエスは今ここにはいない。ガリラヤにいるのだ」という一節が書かれている点について、以前に構造主義的分析をし、それについて書いたことがあります。この表裏一体性を考える事は、哲学的にも意味があると同時に、今日を考える上でのヒントになることがあると思ったのです。


-野崎氏:
「私に触るなかれ」というこのイエスの言葉は命令形が印象的で、フラ・アンジェリコをはじめ、様々な画家たちによっていわば名場面の一つとして描かれていますよね。おっしゃる通り、他の福音書には出てこない。マルコによる福音書では、イエスの復活後のところは非常に謎めいていて、すっきりした物語になっていない。聖書自体が後年、色々な人たちが書き加えていって作られた文学作品なのだとよくいわれますが、復活のエピソードのちぐはぐさにはまさにそれが表れている。
それに対し、大澤さんは独自な読みによって、哲学的な帰結を導き出していらっしゃる。ヨハネによる福音書の最後のところの「触るなかれ」というのは、自分はまだ父の御許に昇って行っていない。これから昇るのだということですよね。とすれば、「これから天上に昇っていく人間に、地上の人間は触れてはならない」というふうに捉えることもできるでしょう。
この新型コロナウイルス禍の時期に読み直すと、これはとりわけヨーロッパの人たちにとって、衝撃的な意味を新たに帯びてくるともいえます。ヨーロッパの文化は結局、地上の肯定というものをめざして進んできたし、またそれを実現してきたわけです。そのためには新約聖書も大きな意味を持っていた。つまり、イエスは本来、どんどん人に向かっていき、人に触れ、抱擁して、距離をなくす人であったはずです。ところが最後に復活したのちには、自分はもう天に上がるから触らないでくれという。今のヨーロッパもお互いがお互いに対して「Noli me tangere(私に触れるな)」、触らないでくれと言わざるを得ない。
逆に日本は意外と触らない文化なので、そのおかげで蔓延が抑えられているのではないかという説も出ていますね。真偽はともあれ、「接触」に対しての文化の違いは非常に大きなものだった気がします。日本にいても、この状況下でつらいことが多くあるわけですが、私の目から見ると、フランスの人たちが気の毒でならない。このウィルス禍がもたらした衝撃にはすさまじいものがあると思います。自分たちの文化、文明に対するひとつの否定を突きつけられてすらいる。今日の報道ではフランスの感染者が1日3万人を超えたということです。すさまじい数です。私のようにフランスやヨーロッパの文学、文化を追いかけてきた人間にとっては自分もまた直撃されるような恐ろしさがあります。


-大澤氏:
難しいところですね。一方では地球全体が短期間にこれほどまでに影響を受けるのは、ある意味人類史上初めてであり、地球全体の話ではあるのですが、他方で様々な濃淡がある。欧米やラテンアメリカは影響が高く、東アジアは比較的影響が低い状況です。お話を伺って思いましたが、それを受ける文化的背景も大きく影響します。「触れるな」という言葉に衝撃を受ける文化と、それはよその人の話で自分とは関係のない文化の場合とではまったく違う。

例えば、「9・11」という事件ですが、これは主にニューヨークとアフガニスタンの出来事なので、ニューヨークの人々にとっては特別な体験だということを理解した上で付き合う。しかしコロナは世界中の問題なので、皆が体験したという前提で話をするわけです。ところが、実際は濃淡のある体験をしている。日本にいると「少し長いが一過性のものに過ぎない」と思っているところがあるかもしれませんが、欧米においては「すごいことを経験してしまった」という感覚を持っていると思います。これから他の国の人々と付き合う時に、「あなたも知っている通り、コロナの事が」という話になった時に、それぞれが「知っていること」は別のものだということです。
これは少し嫌な予感がします。あまりにもひどい出来事があると、逆にディスカウントして何とか受け入れ可能なものにする精神分析的なディフェンシングメカニズムが起こります。日本人は何事も無かったかのように振舞うのが得意といいますか、そういう所に長けている部分があるので嫌な予感がしています。


-野崎氏:
そうかもしれませんね。それだけに、ぼくとしてはフランスのことを今後もしっかりと見ていきたいと思う。フランスからは、自分たちが徹底的なダメージを受けたというだけではなくて、これを世界規模のエピデミック体験として捉え、ここからどのように復活していくかという議論が出てくるだろうと思うのです。

大澤さんの本で言われている「連帯」についてですが、確か前回CCIの集まりでも「連帯」の重要性をお話しになりましたね。今回の事態は「世界共和国への第一歩になるべきなのだ」という非常に壮大なビジョンで、ある種オプティミスティックにも思えるし、驚く人もいると思います。しかし改めて、ヨーロッパの諸国やとりわけ共和国としてやってきた国々は、まさにそういう発想を抱いているだろうという気がする。
ところが、個人的なレベルに引き戻すと、世界共和国を支えるべき「連帯」の在り方というものが見えにくく、日常のストレスに繋がっているようにも思えます。 つまり、結局自分には何もできない。日本でのコロナの状況が見えづらいということもあり、何か社会のためになることをしたくても行動に結びつかない。そういうことがあるわけです。日常生活がエッセンシャルなものに還元されていくなかで、非常に不自由な感じがする。
「繋がり」や「連帯」をどのように育めばいいのか、難しいですよね。


-大澤氏:
これは難しいのですが、わざとオプティミスティックに言っている部分があります。現状を見ると悲観的予想の方が当たり前にできる。しかし私は、ある時からポジティブな面について、それが例え1しかなかったとしても100に膨らませて言っておくことにしています。予想が外れる可能性の高いことはわかっていながらも、そういう発言をしておくことに意味を感じています。一瞬「希望」を抱いた時、大抵その「希望」は満たされないのですが、その「希望」が満たされなかったことを残しておく必要があると思うのです。そういったことが空気に漂い、次の世代の人達がその空気に感染する。そのためにわざと言っておく。
普段言っていたらただの夢物語かもしれませんが、今のような瞬間であれば、一瞬そういう夢を見てもいい。夢は破れるかもしれませんが、残しておくべきだと思うのです。

では「連帯」のための手がかり、何によって「連帯」するのかといったとき、宗教や理念があってポジティブに連帯するわけではない。ウィルスからの防衛、安全、健康、あるいはビオポリティックのようなものしかない。最低限すぎるような媒体によって強い結束を作ることができるのか、というのは分からないところです。

國分さんとの本の中にもイタリアの哲学者アガンベンの話が出てきます。彼はフーコーを引き継ぎながら生政治批判をしていますが、現在の生政治的な状況を否定的に見ています。野崎さんはどのようにお感じになりますか。


-野崎氏:
アガンベンの言葉には少し傲慢さを感じないでもない。バイオセキュリティが優先されて自由が制限されることに苛立って、コロナの危機をあえて軽く見ているかのような印象も与えますから。
今、大澤さんがおっしゃったことは非常に共感できますし、大澤さんの立場から是非そういう発信を続けていただきたいと思います。私自身も少しでもポジティブなメッセージを発信できたらいいとずっと思っています。また、そういった芽を日常の中に見つけたい。今の日本においては、例えば交通機関に乗った時、若者が窓をさりげなく5cm開けるというさりげない仕草の中に、ある種の「連帯」が生じている感覚を持つことが重要だと思うのです。

フランス文学の話題としては、カミュの『ペスト』という小説が注目されています。どこの書店でも平積みされていますが、この本がどうしてあそこまで話題になるのか。そこで思い出されるのは『ペスト』が出版された際、ロラン・バルトが徹底的に叩いたということです。フランスでは、バルトもサルトルもこの本についてかなり批判したのですが、世界的には多くの人々に愛読されて今日に至っている。実際、名作であると私は思います。この本の中ではリウーという医師を中心に疫病に対する「連帯」が拡がっていく。そこでカミュとしての一つの理想的な共同体のあり方が提示されている。例えば、カトリックの司祭と無神論者がともにペストと闘うわけです。皆でチームを組んで患者さんを助ける活動がなされ、目に見えるように「連帯」が演出されている。
しかし、これを今回のコロナで同じようにやるのは難しい。素人が最前線に加わっていってコロナと闘うなんていうことはできない。ロラン・バルトは、「美しい男たちの寓話に過ぎない。まったく現実性のない本だ」というようににべもなく批判しましたが、理屈では確かにそうかもしれない。
とはいえ、今読んでもとても美しい小説であること、これは否定できない。大澤さんのいわれる「希望」を、ぎりぎりの状況の中で生み出そうとする小説なんですね。それが21世紀のこの時点でも、人々にアピールしているわけです。
文学がわれわれに対して働きかける力というものを、思いがけなく改めて示してくれているように思いますが、大澤さんはカミュについてはどう思われますか?


-大澤氏:
あの本は美しいといえば美しいですよね。ただ問題は、あそこにある「連帯」の精神には共感できるものの、現に我々がやれること、やろうとすることにはひねりがあり過ぎるのですね。例えば、「よし、皆で助けに行こう」とすると、「いや、あなたはできるだけ家にいた方がいい」と言われる。このように「一体自分に何ができるのだろうか」ということに対し、カミュの世界と自分の世界、本当はカミュの世界へ向かいたいものの、向かうことの難しさ、そこにひねりがあり過ぎて、逆に少し落ち込むというような感じがします。


-野崎氏:
そうかもしれませんね。結局のところ、カミュの美しさを再発見することはできても、今の現実の中でカミュの主人公のように行動することはなかなか難しい。
しかし、それでも意義があると思うところは、この事態の中で、カミュの文学そのものが多くの人に再発見され、一つの作品の生命がまた更新されたわけですよね。精神的に受け継がれたということ。これは大変重要なことだと思うのです。

最近人に教わって知ったのですが、朱戸アオという日本の漫画家がカミュの『ペスト』を下敷きにしたオリジナル作品を描いていて、3年前に講談社から出版されています。カミュの主人公であるリウーの名前をタイトルにした『リウーを待ちながら』という本です。
静岡県のある町で自衛隊が国際的活動で感染したという設定で、ペストが突然蔓延するのです。静岡のある町全体を隔離し、カミュの小説のようなことが起こっていく。疫病に対する想像力を活発に働かせて描かれており、「マスクがない」ということから始まって、今起きていることを先取りするような要素がたくさん含まれています。そしてその大元には『ペスト』がある。そこには脈々と、共通するシナリオが受け継がれているのです。漫画自体についてあれこれ説明するのは野暮なのでこのくらいにしておきますが、深刻な状況を扱いながらもとても爽やかな作品になっているのです。それは、作品全体としてカミュの小説そのものを受け継ぎ、そこに希望を見出すというモチーフがあるからです。その点にとても驚かされ、日本の漫画のレベルを改めて知りました。

今回の事態は21世紀に入ってから特に感じている「文学の危機と書物の危機」が、これからさらに加速するのか、それとも逆転のためのチャンスとなりうるのか。そんなことを考えると暗くなりがちなのですが、文学作品を「活用」する可能性を示してもらったような気がしました。


次回 Part2は、
「コロナ禍は「文学の再起動」を後押しするか、「文学の危機」が加速するか」
についてお届けします。


【対談者 プロフィール】


大澤 真幸氏
社会学者
CCI FUTURE IMPACT Forum座長

千葉大学文学部助教授、京都大学大学院人間・環境学研究科教授を歴任。
1990年代より、理論社会学の立場から現代社会の変容を総合的に分析し、論じてきた。著書に『ナショナリズムの由来』(講談社、毎日出版文化賞)、『不可能性の時代』(岩波新書)、『量子の社会哲学』(講談社)、『ふしぎなキリスト教』(橋爪大三郎との共著、中央公論新書大賞)、『自由という牢獄』(岩波書店、河合隼雄学芸賞)、『日本史のなぞ』(朝日新書)など著書多数。個人思想誌『大澤真幸THINKING「O」』(左右社)主宰。現在、『群像』(講談社)誌上では、世界史の論理構造を解明する評論「〈世界史〉の哲学」を、『本』(講談社)誌上では、動物社会との比較の中で「人間」の本質を考察する「社会性の起原」を、それぞれ連載中。


野崎 歓氏
東京大学名誉教授・放送大学教授
CCI FUTURE IMPACT Forumメンバー

東京大学文学部卒。東京大学大学院人文科学研究科博士課程中退。専門はフランス文学・映画論。
著書に『ジャン・ルノワール 越境する映画』(青土社、サントリー学芸賞)、『赤ちゃん教育』(青土社、講談社エッセイ賞)、『フランス文学の扉』(白水uブックス)、『谷崎潤一郎と異国の言語』(人文書院)、『異邦の香り―ネルヴァル「東方紀行」論』(講談社、読売文学賞)、『フランス文学と愛』(講談社現代新書)、『翻訳教育』(河出書房新社)、『アンドレ・バザン―映画を信じた男』(春風社)、『夢の共有―文学と映画と翻訳のはざまで』(岩波書店)、『水の匂いがするようだ――井伏鱒二のほうへ』(集英社、角川財団学芸賞)など。訳書にトゥーサン『浴室』(集英社、ベルギー・フランス語圏翻訳賞)、バルザック『幻滅』(共訳、藤原書店)、サン=テグジュペリ『ちいさな王子』、スタンダール『赤と黒』、ヴィアン『うたかたの日々』、プレヴォー『マノン・レスコー』(いずれも光文社古典新訳文庫)、ウエルベック『地図と領土』(ちくま文庫)、バザン『映画とは何か』(共訳、岩波文庫)など多数。長年の訳業により第26回小西財団日仏翻訳文学賞特別賞を受賞。