CCI FUTURE IMPACT Forum for SDGs

各専門家からみた現在の状況とこれからの持続可能な社会について、
CCI FUTURE IMPACT Forum座長の大澤真幸氏と
あらゆる分野の専門家からなるメンバーの対談をお届けしてまいります。

今回は、Part1Part2Part3に引き続き、
文化人類学者の松田 素二氏と大澤 真幸氏のスペシャル対談のPart4をお届けします。



【第6回】文化人類学者からみた現状と持続可能な社会とは
文化人類学者 松田 素二氏 × 大澤 真幸氏

Part4(全4回)
連帯を考える。類をも超えた連帯を実現するには


-大澤氏:
私が申し上げたかったことと松田さんがおっしゃったことには連続性があると思います。人間というととても狭い感じがしますが、人間にとって人間という範囲は実は広く、生物的な人間の範囲を超えてきます。人の範囲はいくらでも狭くも広くもなる。極論を言うと、生きとし生けるもの、存在するものは全て広い意味での我々の仲間、広い意味での人的存在となり、石でさえもある意味、人であるという感じになります。

明らかに人間にはそのような感受性があり、それを我々の行動や社会の仕組みにうまく反映できる形になった時、その時こそSDGsの課題も解決していくことになっていくのでしょう。我々人間が元々そういう感受性をベースに持っていることと、実際の社会を運営するにあたり、どのような仕組みや価値観を重視するのか、というところに大きな乖離があります。先程言ったように場合によっては、生きとし生けるものを超えた無生物さえもある意味で生けるものとなり、広い意味で人の仲間になるという感受性は、特別な詩人だけが持っているわけではなく、本当は誰でも持っているのです。むしろ、我々はそのような感覚を普段は抑圧して生きているのだと思います。後はこの感覚を実際の行動に持っていくとどうなるのかという問題は残っていますね。

最近、宮沢賢治について調べる機会があり、あらためて宮沢賢治を読んでいるのですが、先程おっしゃったように何もかもが生きている、風も生きているし、石も生きているという世界、そういう感覚がします。私の師匠の見田宗介先生も宮沢賢治について優れた本を書かれています。見田先生は宮沢賢治に共感しているし、ご自分の感覚が賢治の感覚に近いところを持っているのだと思います。一般的に宮沢賢治を好きな場合、近代科学を投げ捨ててそれとは違う詩人的直観の方に行くということになる。しかし考えてみると、宮沢賢治自身も20世紀の前半に田舎に暮らしながら、最先端の科学知識や相対性理論にも興味を持ち、科学を信じていた。
それらを踏まえた上で、見田さんを素晴らしいと思うのは、宮沢賢治論のようなすごく文学的感受性の豊かな作品を著すと同時に、一方で動物社会学の見地から『自我の起原』という本を書かれている。この本は「生命」を、それこそ文字通り進化論の成果などを入れながら、人間の連帯の可能性と自我の生成を原理的な所から見直そうとするものです。私が見田さんの本の中で一番好きな著作です。
科学そのものは次々と新しい知見が増えていきますから完結した仕事ではないのですが、見田さんの『自我の起原』を読みますと、前半には自然科学的な話が書かれており、後半に付録があります。その付録の内容が宮沢賢治論なのです。一方で詩人的な直観と言われる我々のプリミティブな、しかしベーシックでユニバーサルな生命感覚のようなものを捉え、一方で現代社会の中で一番説得力がある言説として流れている科学を捉え、それら両方を一つの視野に収めていく。そうしないと、なかなか人を説得できる論理になりません。詩人的直観と科学的ベースを持った概念との間に一つの繋がりが提示できないか。
科学的な知見と石にまで生命をみるという非科学的な感覚、その両面が矛盾なく統合できるような思想の体系があると、希望が出てくるのではないかと思います。


-松田氏:
この機会ですので是非伺いたいのですが、見田さんのおっしゃっている「自我の生成と連帯の創造」というものを議論する際、その連帯の源の一つに科学が入るのですか?


-大澤氏:
そうです。少しご説明しますと、見田さんにとって「エゴイズムの克服」というのが一番の知的課題です。というと、「そうだね、立派な道徳的な人間になってエゴイズムを克服しよう」という話になりがちですが、見田さんの学問的なねらいは全然違うところにあります。
倫理的に卓越した人だけがエゴイズムを克服できるという話なら、要するに、人間は一般的にはエゴイズムを克服できない、ということです。
見田さんのねらいは、人間のごくあたりまえの本性の中に、エゴイズムを超えていくものがあるのか、その点を解明することにある。人間は動物なのだから生存競争をしながら生きており、自分の生命の持続が生命としてのベーシックな目標である。だから、人間が利己的になるのは当たり前ではないかと、常識でもそうだし、普通の科学者もそう考えます。
逆に言うと、利己性を乗り越えるためには、人間の生命としての側面を否定することや抑圧する必要があるのではないかと一般的には考えられています。しかし、見田さんはそうではないということを科学的に証明しようとしています。背景は複雑ですが、議論の骨格は非常にシンプルです。私自身はそれに対して学問的な異論が少しありますが、見田さんの問題意識はよくわかるし、共感します。

現代の進化論のベースは遺伝子の論理です。生存競争という時には、動物の個体やネアンデルタール人とホモサピエンスのような類と類が闘ったようなイメージを持つかもしれません。しかし、進化論的に考えれば競争の単位は遺伝子です。だから、セルフィッシュジーン(利己的遺伝子)という言い方になるわけです。我々一人ひとりは沢山の遺伝子の集合体であり、たくさんの遺伝子が乗った船のようなものです。遺伝子という単位はセルフィッシュであるならば、逆にその集合体である個体は必ずしもセルフィッシュではないということになります。そこから、個体を超えた繋がりの可能性、様々な生命や種が共生することの論理的可能性について、自然科学的な知見に矛盾しない形で導き出すことができるのか、ということについて証明していくのが見田さんの仕事です。狙いはとても豊かで、ある意味で希望のある、ある種の結論に向かっていくのですが、論理の一つ一つの筋を見ていくとまだ飛躍があるかなと考えています。


-松田氏:
お伺いしたのは、今度「Withコロナ、Postコロナ世界に人は差別をいかに乗り越えるか」というテーマで、遺伝子学者、ネアンデルタール研究者、文化人類学から数名を含んで議論する予定です。
その中に、先程のエゴイズムではないですが、人間である限り、エゴイスティックな人と自分を区別し、差別するという意識はなくならない、それが今までの進化で積み重なってきたものだという論理を展開する自然科学者の方がいる。
一方、それに対して別の自然科学者は、先程の自我との連帯でいえば、正しいDNA分布の配置図を啓発教育することで人間の類的同一性を教え、人と自分の違いを強調するような差別を乗り越えるという、おとぎ話のような面白い発想なのですが、そういう論理を展開する方もいます。

見田先生が「エゴイズムを乗り越えたい」という時の乗り越え方としては、連帯に向かうためには、エゴイズムのベースとなる遺伝子とは異なる遺伝子が作用して人と人を繋げるというようなイメージなのでしょうか?


-大澤氏:
見田さんの場合、遺伝子と異なる作用を入れていくわけではありません。そうすると、どうしても、生命や動物の原理を超えた、人間的な道徳とか倫理とかを入れて、人間の生命としての衝動や欲望を抑圧しないと利己性は乗り越えられない、という話になってしまうからです。

まず、遺伝子が利己的であるのは、進化論の公理のようなものです。そこから、自然科学者を含め、ほとんどの人が、「したがって個人も利己的にならざるをえない」という結論を導くのですが、よく考えると、この結論は、論理的でも十分に科学的でもない。
まず、遺伝子にセルフィッシュな性格がある、それは当然です。遺伝子自体が自分を再生産し増殖させる。自分を再生産させることができない遺伝子は論理的には滅びるわけですから、ある意味で遺伝子のセルフィッシュネスに対してはトートロジカルな必然性があります。
もし遺伝子自体が利他的であった場合ですが、自分が死んでもかまわないとなってしまったら一代限りで終わってしまいます。しかし遺伝子は持続する傾向があるわけです。けれどもそれを仮定したとしても、必ずしも個人が利己的だという結論は出ないということなのです。
つまり、遺伝子の利己性と(多数の遺伝子の共生系である)多細胞個体の利己性の間には、論理的なつながりはない。むしろ、利己性は遺伝子のレベルにある以上は、個人は必ずしも利己的とは限らない、というのが正しい論理的なつながりです。

見田さんの本では有名なリチャード・ドーキンスの論理を一番のベースに置いています。リチャード・ドーキンスは『セルフィッシュジーン』という本を書き、それが世界的ベストセラーになりました。彼の本の中に書かれている論理には、「遺伝子が利己的である以上、人間個人は当然利己的になってしまう」という含みがあります。
しかし見田さんはその部分について、それは科学的な言説ではないとしています。ドーキンスの論理を使い、むしろ徹底させることで、ドーキンスが言っていること(人間個人の利己性)を否定してしまう、というアクロバティックな読み方をしているわけです。
つまり遺伝子が利己的であるということは科学的に明らかである。しかしその上で、そこから個人の利己性を導き出す時、科学者や生物学者でさえも、気づかぬうちに(個人主義の)イデオロギーが入ってしまっている。むしろ、あなたの科学的な言明に対して、より忠実に受け取れば遺伝子が利己的なのでしょうと。そうではある以上、個人は必ずしも利己的ではないという結論でなければならない、というものです。

遺伝子問題でよく出てくるのは社会性のある動物、例えば昆虫などがそうですが、ミツバチなどは自分が自己犠牲となっていくわけです。利己的な遺伝子を持っているはずだが、いくつかの個体はまったく自分の子供を残さず死んでいく。これは、利己的な遺伝子の論理から、もちろんミツバチの社会性というのは整合的に説明することができます。これが20世紀の後半に出てきた社会生物学の一番の成果です。これをさらに一般化するというのは言い過ぎですが、遺伝子の利己性を前提として、なおかつ個人の利己性を乗り越えることができる可能性が論理的に導けるというのが見田さんのおっしゃっていることです。これは論理的にすべて説明できるかというと、まだ多少の疑問が残ります。つまり、遺伝子の利己性の前提から、「個人が必ずしも利己的とは限らない」という消極的な結論は出せますが、さらに、先ほど述べたような存在のすべてにまで広がっていくような普遍的で無際限な連帯という積極的なことまで導きだせるかは、まだ微妙です。しかし確実に言えることは、遺伝子の利己性と個人の利己性の間には明らかに必然的な繋がりはないということです。見田さんはポジティブに書かれていますが、遺伝子の繋がりから個人の利己性を超えた連帯というところまでストレートに出せるかどうか、というのは学問的には詰める余地があると思います。

私は2013年より講談社のPR誌「本」に『社会性の起原』というタイトルの連載を書き続けています。見田さんの論理を継ぎつつ、見田さんの論理のまだ詰め切れていない部分を詰めていきたいと思い取り組んでいます。見田さんの論理は大きく見ると遺伝子と個体の間、細かなものはあれども大きな布石はこの二つなのです。しかし、これだけですと「個人が必ずしも利己的ではない」というところまでは言えますが、「連帯の普遍性」というところまではいきません。普通はそこで「人間はただの動物ではない」という言い方をし、人間に動物にはない精神的な原理や理性を入れて、そのような話を作っていきます。しかし私はそうではなく、ある意味でかなり経験科学的な生物や動物の論理から連帯の原理を導くことが可能だと考えています。

先程、何故か人間という動物は身内以外ものに対しても思わず共感してしまう性質を持っているという話をしましたが、これも人間が動物と違った理性を持っているとか、特別な精神を持っているからというわけではないと思うのです。むしろ、人間の生物としてのアスペクトとして何故か身内以外のものに対して何かを思ってしまう。これは遺伝子の論理だけではストレートに説明できませんが、かといって人間の非生物的な精神性のようなものでもない。この拡張する社会感覚みたいなものは、チンパンジーとは全く違います。しかし、かといって動物とは離れた超越的な原理で説明したくないし、実際そんな原理ではないと思います。


-松田氏:
見田先生がいつ頃からそういう発想を強く持たれたか存じ上げませんが、自分が自分であることと、人と人を繋いでいく、いわゆる「連帯」といってもいいかもしれませんが、その根拠が何かということは、単に民族共同体や国家共同体というレベルではなく、もう少し深いところで人と人とがつながる根拠、基盤があるのだと思います。恐らくそれが、大澤さんがずっと探求している社会の始原の解明に繋がっていくのだと思います。

私がフィールドで考える時も、やはり人と人がどのように繋がるかという時、従来の人類学では、リネージやキンシップ、エイジグループといった装置を使ったのですが、もう少し深いところで人と人が繋がる基盤があり、それがあるからこそ人は、色々な異なった人と繋がっていく可能性をオープンに持っているのではないかと。それについてはフィールドを通して考えていきたいテーマで、勉強をしている状況にあります。


-大澤氏:
つくづく思うことは、我々人間は自分以外の複数の他者がいる世界、いわば社会の中で、喧嘩もすれば連帯もするという中で生きるということがどういうことなのかを、まだ本当には掴み切れていないのではないかということです。それを掴むことと、Postコロナのみならず、SDGs的な世界の中で我々がどのようにある種の幸福や繁栄を確保できるのか、という問題にも繋がってくると思っています。

最後に今後のフォーラムで取り組みたいことはおありでしょうか。


-松田氏:
先程来でている「連帯」について関心があるので、是非それをテーマとした大澤さんのお話を伺ったり、皆さんでディスカッションができればと思います。


-大澤氏:
本日はどうもありがとうございました。





【対談者 プロフィール】


大澤 真幸氏
社会学者
CCI FUTURE IMPACT Forum座長

千葉大学文学部助教授、京都大学大学院人間・環境学研究科教授を歴任。
1990年代より、理論社会学の立場から現代社会の変容を総合的に分析し、論じてきた。著書に『ナショナリズムの由来』(講談社、毎日出版文化賞)、『不可能性の時代』(岩波新書)、『量子の社会哲学』(講談社)、『ふしぎなキリスト教』(橋爪大三郎との共著、中央公論新書大賞)、『自由という牢獄』(岩波書店、河合隼雄学芸賞)、『日本史のなぞ』(朝日新書)など著書多数。個人思想誌『大澤真幸THINKING「O」』(左右社)主宰。現在、『群像』(講談社)誌上では、世界史の論理構造を解明する評論「〈世界史〉の哲学」を、『本』(講談社)誌上では、動物社会との比較の中で「人間」の本質を考察する「社会性の起原」を、それぞれ連載中。


松田 素二氏
文化人類学者
京都大学アフリカ地域研究資料センター特任教授/特任研究員
CCI FUTURE IMPACT Forumメンバー

ナイロビ大学大学院修士課程を経て京都大学大学院文学研究科博士課程中退。
特に東アフリカ社会をフィールドにして、相互扶助や紛争解決のメカニズムに関する人類学的研究をしている。 1998年共編『新書アフリカ史』でNIRA東畑精一記念賞受賞。著書に、『日常人類学宣言!』(世界思想社)、『都市を飼い馴らす』(河出書房新社)、『呪医の末裔』(講談社)、『抵抗する都市』(岩波書店)『Urbanisation from Below』などがある。