CCI FUTURE IMPACT Forum for SDGs

各専門家からみた現在の状況とこれからの持続可能な社会について、
CCI FUTURE IMPACT Forum座長の大澤真幸氏と
あらゆる分野の専門家からなるメンバーの対談をお届けしてまいります。

今回は、Part1Part2に引き続き、
文化人類学者の松田 素二氏と大澤 真幸氏のスペシャル対談のPart3をお届けします。



【第6回】文化人類学者からみた現状と持続可能な社会とは
文化人類学者 松田 素二氏 × 大澤 真幸氏

Part3(全4回):『善く生きるということ』に対する多様性を考える


-松田氏:
以前、異文化理解の授業をやっていたとき、学生の中に亡くなった中村哲さんの医療ボランティアでパキスタンに行った女性の学生がいたのですが、ゼミに帰ってきた際に自分でもよくわからなくなったことがあったという話をしてきたので、皆で話を聞いたことがありました。
現地の医療キャンプにお爺さんかお父さんが娘をつれてきた。娘さんの背中には腫瘍のようなものがあり、高熱が続いている状態でした。早速、キャンプにいる医師が診察をしようとしたところ、娘さんは拒否した。なぜかというと、医師は異教徒の男性だったからです。絶対に異教徒の男性には肌は見せたくない。そこで、私のゼミの学生は、異教徒であるが女性だからということで娘さんに了承をもらい、ついたての裏で背中を見ながら状況を医師に説明した。医師は、彼女の情報を元に切除したほうがよさそうだという判断をした。しかし、親も説得したが、娘さんはどうしてもいやだといって治療なしで解熱剤だけもらって帰っていった。あの時、私はどうしたらよかったのでしょう?という問いかけなのです。

日本にいれば、生命を救うというのは唯一の正しい解ですよね。無理やりにでも生きてさえいれば、これから10年先、20年先、自分の人生がどうなっていくかわかりませんが、よいことがあるだろうと。
しかし、娘さんは無理やり命を救われ、宗教的に正しくない体験を刻まれて生きていかなければならないことになる。それは生きるということなのでしょうかという問いだったのです。

このように科学にすがる人もいれば、宗教に求める人もいる。私が一緒に住んでいるアフリカの村の人たちは科学にも宗教にも直接関係ないので別のものにすがるんだろうと思います。
複数の普遍性を意味する「ユニバーサリティーズ」ではないけれども、唯一の解とは違うもの普遍的にがでてくる気がするのですよね。
大澤さんも宗教については、色々書かれていると思いますが、「科学と宗教」というのはずっと大きなテーマですよね。しかし、最終的にすがるものは何かといったとき、第三の道もあると思う。
結局、ディスカッションしたものの、もちろん正解はわからなかったわけです。我々の周りでも、我々の目から見て、許しがたい、認められないような暴力や人権の侵害、あるいは犯罪が目の前で起きた時、それを裁く普遍的な視点というのが何なのか。命の尊重とか科学的な事実の尊重というのも一つのオプションかと思いますが、無条件に受け入れるものではないのではないかと思います。


-大澤氏:
概念的に問題を整理すると、「善く生きること」と「単に生きること」の違いというのでしょうか。

この頃、イタリアの哲学者ジョルジョ・アガンベンをよく引用するのですが、古代ギリシア語にはもともと「生」を意味する概念が二つあって、一つは動物園のZooにつながる「zoe」(ゾーエー)で、もう一つはバイオにつながる「bios」(ビオス)です。「Zoe」というのは「単に生きる」という意味で、動物として生きているということを指します。それに対して単に生きるのはアレント的にいえば、オイコスがやることであって、ポリスは「bios」善く生きることを狙うべきだということです。アリストテレスも、政治の目的は、善き生にあると言っている。「bios」は、人間的な様式をもった生ということです。日本語だと、「zoe」は「生命」、「bios」は「生活」に近いかもしれません。英語だと両方とも「life」ですが。

今の例でいくと、「zoe」の観点からすれば、その女性の腫瘍を取ってあげるということが重要なのでしょうが、その人にとって「善く生きる」という「bios」の観点からすれば、腫瘍を取るということはその人にとっては恥ずべき人生になってしまい、「善く生きる」ためにはあえて治療を拒否することにも意味がある、というような説明になるかと思います。 

我々の中で「zoe」と「bios」に対する矛盾がある。現代の政治というのは、古代の政治とちがって、基本的には「zoe」、つまり生物として生きるということが至上の目的になっていて、それ以外のことはそれに附属する二次的なものとなります。それぞれのやり方、生き方はあれども、生命として長く生きること以上の価値はないというのが基本的な前提になっています。それぞれの人の「bios」を尊重するということであれば、今のような場面で科学的知見、医学的知見を持って「~する方がよい」と言えるのか、という問いがあると思います。

その上で考えるところがあって、異なる文化の人たちに対して共感をしたり、助けなければならないという時に、そのベースにはストレートな意味での「生命」というものがあると思うのです。「生命」ということに依拠すれば、グローバルな異なる文化の人たちに「こうすべき」「こうしたい」という「連帯」をするための手掛かりを得ることができると思うのです。ある種の文化の壁を越えてなお連帯するときに、最も有効な方法は西洋由来の特に科学というものと整合性の高いある種の普遍性の論理だと思います。しかし、それが彼らにとっての「bios」を冒すということになった場合、どうしたらよいのか。


-松田氏:
例えば、アフリカでスラムにいくと、様々なNPOが入ってくるのですが、今大澤さんがアガンベンの二つの生について説明してくださったのと同じようなことを「サバイバル」と「ライフ」と言い換えることができるように感じました。つまり、スラムに住んでいる人たちが餓死しないように、最低限の生命体を維持するための「サバイバル」を保障していくことがNPOの活動のベースにある。しかし、そこに批判がずいぶん起こってきています。「サバイバル」というのは、一日1ドルを与えて最低限のベースラインを確保することになるのですが、彼らにはより善く生きる権利があるし、やはり生活するというか、より善い生を営むというのは重要な点だと思うのです。それが「ライフ」あるいは「リビング」ということになるでしょうか。

私は、現地語がわからない地域に行ったとき、文化の間の共約可能性の問題、もしくは人と人との間の共約不可能性の問題かもしれませんが、言葉がわからないし、背景もわからないけれども、そこにいって、人とコミュニケーションできたと感じる瞬間に驚いた経験がありました。
恐らく、私的同一性だけではなく、暮らしていく中で共有できる何かがそこで交換しているのだと思います。動物に対しても、あるいは霊に対しても、自分たちと異なる異種と通行できるような、何かの基盤になり得るものがあるとするならば、それが連帯の糸口になるような気がするのです。
イデオロギーとかサイエンスとか宗教というのも強力な連帯の装置になるとは思うのですが、他に何かないのかなと思うのですよね。


-大澤氏:
その種のものは強い連帯の装置にもなりますが、葛藤の装置にもなっていますからね。確実に言えることは人間にとっては身内、家族、仲間が大事です。その他の人を強固に結びつけるものとしては、同じ価値観を持っている、同じ目標を持っている、ということ。つまり「同志」的な結合ですね。
こうしたことは確かなのだけれども、しかし、人間の、他の動物にはまったく見られない極端な特徴として、自分の身内や仲間ではない人に対して、最低限の共感、配慮をしてしまうことがあると思うのです。もちろんぎりぎりの時には身内や仲間を大切にし、誰かを相対的に排除するということはあると思いますが、そういうときでも、多少後ろめたい気持ちになる。これは人間の特徴だと思います。

私は、京大にいた頃から霊長類研究に興味があり、それをテーマにして本を執筆したり、考えたりしているのですが、つくづく人間とチンパンジーは大きく違うと思うことがあります。チンパンジーは群れと群れが遭遇すると、雄同志が生きるか死ぬかの闘いをする。雌は基本的にどちらでもよいらしく、闘いません。雄には緩やかな縄張り意識があり、大変な葛藤をします。その際、自分の群れの外にいるチンパンジーを殺したとしても、彼らは何ら痛みを感じていないと思います。
「人間も戦争をするじゃないか」と言われます。確かにチンパンジー以上の争いをする。原爆を落とし、多くの犠牲者を出す。チンパンジーよりももっと極端なことをします。
しかし、人間の特徴は自分の仲間以外の他者を痛めつけたことに対しても、若干の痛みを持つことだと思います。まったくの部外者であっても、殺してしまったときには、自分の行った行為に対して、言い訳が必要だと思っている。

例えば、アメリカのトランプ大統領はアメリカファーストと言っていますが、これは開き直って言っているわけです。本当はアメリカファーストではない方が立派かもしれない、しかし格好つけている場合ではないのだと。彼も本当はアメリカ以外の人々を含めた全人類のことを考える方が善であるということは分かっている。しかし、それは偽善だと思っているからアメリカファーストと言っている。

何故か人間は自分の仲間ではないものに対しても考えてしまう。少し抽象的にいうと、人間は人類という「類」のことを考える唯一の動物だと思います。チンパンジーは、群れの存続は考えるが、チンパンジー類のことは考えない。自分が群れの中でいい順位を確保することや、縄張りや群れ自体の存続については考えるかもしれません。しかし、チンパンジー全体のことを考えることはありません。
以前は学生たちにフォイエルバッハやマルクスを使ってGattungswesen、類的存在について説明をしたものですが、フォイエルバッハやマルクスとは違った意味で、人間だけが唯一「類」を考える存在でという趣旨で、まさにGattungswesenです。そのように考えると、希望の道があり、私たちはどこかで人類レベルでものを考えようとしています。

しかし、実際に行動を起こす時に先進国基準で行えば、アフリカの人々にとってはオプレッシブなものになってしまい、先進医療を施そうとすると拒否されるということが起こる。しかし、人間という動物には最もベースのところにイデオロギーや宗教とは関係のない「連帯のための芽」のようなものが備わっている気がします。

これをどのようにポジティブかつ生産的に実際の行動や政策に活かしていくのか、という大きな課題が残ってはいますが、「人間は本質的に自分たちのことしか考えないので希望がない」ということにはならないと考えています。


-松田氏:
大澤さんのお話は大変希望のあるお話だと思います。類的存在のお話もすごく面白いですね。ただその一方で、人間というのはもっと広く存在を考えられるのかなと思っています。今ご説明のあった「類的存在」というのは、ある意味でのヒューマニズム、人間中心主義のことだと思います。

以前、お話をしたことがあるかもしれないのですが、ナイジェリアにエイモス・チュツオーラという「ヤシ酒飲み」などの本を書いている奇妙な小説家がいます。彼が書く物の中に出てくる「人」や、我々がアフリカで出会う様々な小さな世界観においては、もちろん一般的に自分たちは人で、それ以外は人ではないというのもあります。しかし、それ以外に、そこには無生物(石とか)や非人間の生物(植物)などが存在している。つまり、その場合の類というのは、人(ヒト)類ではなく、意思を含むもっと広い意味での「類」を指すのですね。

以前から親交があるカメルーン出身のフランシス・ニャムンジョという、現在はケープタウン大学にいる思想家、人類学者、作家がいるのですが、彼は「コンヴィヴィアル(convivial)」という言葉をよく使います。「コンヴィヴィアル」というと、我々が真っ先に思うのは、イヴァン・イリイチの「コンヴィヴィアリティのための道具」で展開されたアイディアでしょうか。訳者の渡辺京二さん・梨佐さんは自立共生と訳していますが、ニャムンジョさんの提起するコンヴィヴィアリティは、イヴァン・イリイチがいうようなものではなく、人間、生物、無生物という異次元の要素を結節するものを指しており、アフリカの人間観はそういうものだというのです。

西洋出自の普遍的な人間観というものはヒューマニズムであり、それを用いて争いを乗り越えていくことも可能かもしれませんし、大澤さんがおっしゃるように類の中から希望を見出すというのも今の対立状況から考えると一つの光明のようにも思えるのですが、人間観をスライドするともっと広く類的存在の視野が広がっていくような気がします。

私たちがアフリカで出会う世界の中では、人間に閉じた(人間中心主義の)世界観というのはそれほど存在しないのです。例えば、人間の世界とハイエナの世界、ウサギの世界はほとんど連続しているので、普通にヒト語で話をしているし、石も木も話をする。つまり、そのような無生物も含めた大きな存在を対象にするような人間観があるとすれば、それに依拠した知識や世界認識の方にも光明があるのではないかと思います。


次回 Part4は、
「連帯を考える。類をも超えた連帯を実現するには」
についてお届けします。


【対談者 プロフィール】


大澤 真幸氏
社会学者
CCI FUTURE IMPACT Forum座長

千葉大学文学部助教授、京都大学大学院人間・環境学研究科教授を歴任。
1990年代より、理論社会学の立場から現代社会の変容を総合的に分析し、論じてきた。著書に『ナショナリズムの由来』(講談社、毎日出版文化賞)、『不可能性の時代』(岩波新書)、『量子の社会哲学』(講談社)、『ふしぎなキリスト教』(橋爪大三郎との共著、中央公論新書大賞)、『自由という牢獄』(岩波書店、河合隼雄学芸賞)、『日本史のなぞ』(朝日新書)など著書多数。個人思想誌『大澤真幸THINKING「O」』(左右社)主宰。現在、『群像』(講談社)誌上では、世界史の論理構造を解明する評論「〈世界史〉の哲学」を、『本』(講談社)誌上では、動物社会との比較の中で「人間」の本質を考察する「社会性の起原」を、それぞれ連載中。


松田 素二氏
文化人類学者
京都大学アフリカ地域研究資料センター特任教授/特任研究員
CCI FUTURE IMPACT Forumメンバー

ナイロビ大学大学院修士課程を経て京都大学大学院文学研究科博士課程中退。
特に東アフリカ社会をフィールドにして、相互扶助や紛争解決のメカニズムに関する人類学的研究をしている。 1998年共編『新書アフリカ史』でNIRA東畑精一記念賞受賞。著書に、『日常人類学宣言!』(世界思想社)、『都市を飼い馴らす』(河出書房新社)、『呪医の末裔』(講談社)、『抵抗する都市』(岩波書店)『Urbanisation from Below』などがある。