CCI FUTURE IMPACT Forum for SDGs

各専門家からみた現在の状況とこれからの持続可能な社会について、
CCI FUTURE IMPACT Forum座長の大澤真幸氏と
あらゆる分野の専門家からなるメンバーの対談をお届けしてまいります。

今回は、Part1に引き続き、
文化人類学者の松田 素二氏と大澤 真幸氏のスペシャル対談のPart2をお届けします。



【第6回】文化人類学者からみた現状と持続可能な社会とは
文化人類学者 松田 素二氏 × 大澤 真幸氏

Part2(全4回)
50年後、100年後の世界を見据えた発想と300年の不正義をどこかで正すポストコロニアルなステージを


-大澤氏:
住血吸虫がいる川と衛生的な井戸のお話は、科学的知識が私たちの生活や社会の運営の仕方とどのような関係にあるかということですね。いわゆる先進国では最上位に科学的知識があって、それに矛盾するようなことはできません。基本的には科学的知識に整合するように社会を作っています。しかしグローバルな人々が全てそういうわけではない。それぞれの社会が孤立しており、独立して自分たちのやり方で運営しているというのであればそれでよいのですが、今回のコロナのように、例えばケニア国内で感染者が増加した場合、グローバルにおいても危機になるというように全世界に繋がっている。

同様に、SDGsの観点、地球全体の問題、気象の問題なども含め、様々な課題に対して国や地域がそれぞれに対策を取ればいいわけではなく、グローバル全体として対策を取らなければならない。その時に世界全体にとっての基準は、各国、各地域にとっても適切であり、必要であり、緊急であるというように同じでなくては困るわけです。しかし例えば、CO2の排出を制限することが緊急の課題だということになったとしても、ある国や地域にとっては日々の生活の中で焼き畑を行う方がより重要だということになるわけです。このような極端な不一致も生まれます。

僕らが行動する上での肉体化された観念と、グローバルな世界を運営する上での理念やプロジェクトとの間には様々な不一致があります。どうすればよいのでしょう。


-松田氏:
当然ですよね。よく地球環境問題で、アフリカの国際会議に陪席すると、最近は露骨なことはないものの、80年代、90年代にはよくあった議論は次のようなものです。
その時議論されたのは、フロンガスについてです。オゾンホールをつくるフロンガスが冷蔵庫に使われていましたよね。先進国ではもちろん規制をしていく訳ですが、アフリカはちょうどその頃中産階級で冷蔵庫が普及してきた頃でした。フロンガスを使った冷蔵庫を使うなというのは、先進国の正しい科学的知識で彼らがこれまで数十年間か享受してきた冷蔵庫という文明の利器を安く発展途上国の人々が利用する機会を奪うわけです。

もちろん、地球環境を考えれば、大澤さんが先程おっしゃったように途上国も先進国もなく、結果としてあるのは全体として地球環境を破壊していくことであるという。この考え方が誰の口から発せれられるかというと、やはりそれを享受してきた側が科学的知識に基づいて教え諭してくれるわけです。その時に、自分たちがこれまで得てきた、例えば、石炭による発電とか、フロンガスによる冷蔵庫の使用とか、ディーゼルによる自動車の使用とか、そういったものを経験してきた人たちが上から、正しい知識でその制限を訴えるというのは、この300年、400年の社会的システムでみたら、不正義、不平等な土台の上の振る舞いですよね。
それをいっては今がだめになる、人類全体が生きるこの惑星全体に害を及ぼす、というのはよくわかるのですが、言われた側で暮らしてみると、その正しい言い方というのはどこか腑に落ちない言い方なのです。
「自分たちの利益を優先させると全体の利益が損なわれる」ということを、100年間植民地支配してきた人達が、正しい知識としてまた啓発してくる構造は考え直さなければなりません。同じことを言うにしても、言う側の人もその言い方に潜むコローニアルな視点については反省する必要がある。

先程お話したWamba dia Wambaは、自分の政党をつくってゲリラ闘争をした人で、「自由と民主主義」を主張し続けた人です。代議制の話や真に代表するのはどういうことかについて、彼とアレントを比較する論文もいくつか書かれています。
我々が合議をする時には、理性に基づいて言葉のやり取りをし、論理的に正しい、あるいは科学的に正しい議論を展開していくというのが一つの方法ですよね。
しかし、Wambaは、それの効果は認めながらも、そこにある強者の横暴というものを指摘しています。先程のコロナの話ではないですが、「唯一の正しい解」を求めて解同士が競合し、「間違った」ものを除外していくという仕組自体が政治体制にしても意思決定の過程にしてもノンアフリカンだというわけです。
彼がいうアフリカンというのは、「Palaver」方式で解決することをいいます。「Palaver」はポルトガル語で意味のないおしゃべり、雑談という意味ですが、Wambaは、延々と続くおしゃべりを通して不可能な対立を合意に導く対話文化を「Palaver」として定式化しました。相対立する利害集団があるイッシューについて争っている時、たとえ何日かかったとしても、自由で雄弁な無礼講の議論を繰り返すことにより、正しい解ではないかもしれないが、あるところでお互いが双方に合意するというのは、多くのアフリカ社会で見られる解決法です。彼は、こうした「対話」を、理念の相違によって非和解的な対立をもたらしてしまうやり方とは全く異なるアフリカンな知恵として提起したのでした。
この「Palaver」は現実にも応用され(批判はあるものの)実績を上げています。例えば、マンデラ氏の真実和解委員会とか、現在のルワンダのカガメ大統領がジェノサイドに対して導入したガチャチャシステムなどのように、白人対黒人、あるいはフツ対トゥチの対立といった複雑で歴史的に絡みあった問題などが、「Palaver」方式で解決に向けて一歩前進しているわけです。
「Palaver」的世界観からすると、科学的な知識に基づく対策も含め、「唯一正しい解」が支配する世界はオプレッシブ(圧政的、抑圧的)に感じられるでしょう。

先程、大澤さんがおっしゃった、現実に今の世界にどういう害があり、50年後、100年後の世界にどういう害があるという発想にはこれまで300年、400年の不正義をどこかで正す意思とセットになる必要があります。そのポストコロニアルな見直しのステージを経ないまま議論に進んでしまっては、被害を被ってきた人たちはさらなる被害を被ることになってしまうと思うのです。


-大澤氏:
深刻かつ原理的で重要な問題ですね。
例えば、先進文明が周辺諸国を文化的にも政治的にも経済的にも帝国主義的に支配し、植民地化するという図式を考える際、「先進的」とされているところのローカルな文明を他の文明に対してオプレッシブに強制し、それを採用しないと許されない、というイメージで考えると話がわかりやすいですね。
しかし一方で、コロナ対策やSDGsなどの問題においては、たとえオプレッシブなやり方でもそれを実行することが正しい、と皆が思っているところがあるのですね。この場合、抑圧する側の先進的な国の人々は、自分たちの独特なやり方を強制しているのではなく、客観的に見て正しいことを主張しているのです。そして、受け取る側もある意味ではそれが正しいということを分かっているわけです。
それにも関わらずそれは抑圧的になってしまう。非常に難しい問題です。正しいと思っている側は正しくないことをいうわけにはいかない。先程の住血吸虫のいる川の水の例で言えば、「時には不衛生な水を使ってよい」とは言えません。コロナ対策でも、「異なる社会に住んでいるのだから自己隔離しなくてよい」とは言えないわけで、正しいと思われる方向で対応しなければならない。
しかし、それをやったときの結果は物凄く不平等になってしまう。彼らにとっては著しく負荷がかかってしまう。では、どう対応すればいいのか。

例えば、SDGsの目標も全てそうです。誰もがこの目標に対して反対する理由は全くない。しかし、現に実行しようとした時に、全ての人に同じように負担を強いるわけにはいかない。従うこと自体が致命傷になる人々もいるからです。どうすればいいのか。
更に歴史的な背景もあります。17世紀以来の奴隷、植民地化問題という世紀単位の問題に対して、本来なら補償をしなければならない。しかし、補償することが不可能な状態になっていることに対してどのように対応していけばよいのか、ということになります。


-松田氏:
2001年のダーバン会議で、17世紀以降の奴隷貿易と植民地支配に対してアフリカ側は謝罪と補償を求めましたよね。もちろん、先進国はアメリカを含め拒否しました。
しかし、Wambaのようなアフリカの一部の知識人は、補償と謝罪を欧米に求めたアフリカ人こそが、近代植民地支配のいわばエージェントであり、彼らこそがポストコロニアルな統治者だと訴えている。色々な考え方があり、すごく錯綜しているわけです。
科学的な知識に基づき、効果的に何かを対策しないととんでもないことになるというある意味で普遍主義というか、普遍的に正しいものがあり、それはローカルおよび歴史的に経緯はあれども、ある程度リスペクトするという議論に対し、正面からぶつかってきたのは人類学の経験だと思います。

人権の尊重。人間としてある限り普遍的な規範であると思いますが、1946年に国連がナチによるアウシュビッツ(ユダヤ人ジェノサイド)を反省して世界人権宣言を作ろうとした際、一番最初に反対したのはアメリカの文化人類学会だったのです。当時のアメリカ文化人類学会に圧倒的な影響力を行使していたのは、フランツ・ボアズというドイツ生まれのユダヤ人でした。彼自身は1942年に死去しますが、彼の教え子たちが当時のアメリカ人類学会を担っていました。ある意味、歴史的な被害を身内が受けている人の愛弟子たちが、師の教えを守って世界人権宣言のようなものをつくるべきでないと主張したのです。

先程、私が極端な形で申し上げたように、「普遍的なもの」と言ったとたん、個々の社会、特に弱い立場にとっては強者からの抑圧になる。19世紀以来の植民地支配や文明の伝道とか、植民地支配を作り上げるという経緯を知っていた人々は、人権宣言の発布は「危険である」という学会声明を作成して反対するわけです。文明の伝道した人々も悪意があったわけではなく、相手も救われると思いやっているわけですが、それが植民地支配につながっていったわけです。それを強く意識し反省したのがこの反対声明でした。

ところが、1990年代になり、アメリカの文化人類学会はそれを自己批判します。つまり、個々の社会を尊重するという名目で、より大きな被害を出すことになったり、そこに住む人々にとっても、ある意味での害悪をもたらすことがあることを黙認し害悪に加担してきたと自己批判をしたのです。それまでの文化人類学では、人権の元となる「人間観」というのは文化によって異なるので、「普遍的人権」という西欧近代出自の人間観を主張することは強者の論理であるという一言で切ってしまっていたのですが、1997年になって初めて、それを口実にして普遍的人権宣言に反対したというのは恥ずべき歴史であるとしたのです。そこからは、より普遍的なものへのリスペクトを承認する方向になってきました。

しかし、複雑なのは、グローバルな機関や企業というのは、人権擁護を建前にして活動しているものの、彼らが活動する中で、例えばグアテマラなどの少数民族の生活を壊した際、グローバルな機関や企業はグローバルな論理で抑圧する。それに対し、少数民族側はグローバルな論理でしか反抗できなくなっているという問題が起きていることです。

昔のように、相対主義VS普遍主義のような二項対立の図式は、もはや文化人類学の中でも存在せず、普遍主義へのリスペクトが存在するようになりました。そうなると普遍主義の持つ効用を無視して、それぞれの社会の価値観(文化)が重要で、それを守るためには、普遍主義との回路を切断してもいいというレヴィ=ストロース的な思考は淘汰されつつあると思います。


-大澤氏:
知的状況の中での思想や学問の最も基本的な問題ですね。素朴な普遍主義があり、それに対して実は素朴な普遍主義が抑圧的になるのだということですね。アメリカの文化人類学者は早くも戦争直後に気づいていたわけですが、20世紀後半はそれぞれの文化相対主義が主流だった気がします。


-松田氏:
アイデンティティポリティクス全盛の時代でしたよね。


-大澤氏:
そうです。しかし、それはそれで問題が出てきます。
ある文化によって人権侵害がなされているとします。例えば明白に女性を抑圧していると見える時に、たとえば寡婦殉死の習慣のようなものがあった時に、「あの文化のやり方だから」として座視するのか、それとも普遍的人権の名のもとに抗議したり、やめさせるための行動をとるのか。最近は何等かの意味での普遍主義が復活している感じですね。

地球環境問題のように、「それぞれのやり方でやっていきましょう」ということでは解決できない問題が存在しており、普遍的な理念や目標を皆が承認しないとやっていけないことがあります。一方、自分の文化の独自性を主張する際、文化の権利や人権に訴えて相対主義的な主張をするというような逆説も生じていますね。


-松田氏:
ヨーロッパ極右運動における白人優位主義なんかはそうですよね。


-大澤氏:
これはなかなか解決できない問題ですね。今は普遍主義といっても積極的な内容はほとんどない状態です。極論すると、極端な相対主義と普遍主義というのは、それぞれの人の権利を認めていけば、それぞれのやり方や自由を認めなければならなくなってしまいますから、単に理論だけで言えばほぼ一致してしまうのです。

今回、コロナの件で強く感じたのですが、危機的状況に陥ったとき、我々は結局のところ科学しか信じない。最終的に専門家が言っていることに従わざるをえない。
しかし、科学そのものが抑圧的になり、我々がこれから解決しなければならない格差という問題は、むしろ科学を使った政策によってより深刻になるということが起きてしまう。普遍概念の立て直しが必要な気がするのですが、まだ誰にも答えがない気がします。


次回 Part3は、
「『善く生きるということ』に対する多様性を考える」
についてお届けします。


【対談者 プロフィール】


大澤 真幸氏
社会学者
CCI FUTURE IMPACT Forum座長

千葉大学文学部助教授、京都大学大学院人間・環境学研究科教授を歴任。
1990年代より、理論社会学の立場から現代社会の変容を総合的に分析し、論じてきた。著書に『ナショナリズムの由来』(講談社、毎日出版文化賞)、『不可能性の時代』(岩波新書)、『量子の社会哲学』(講談社)、『ふしぎなキリスト教』(橋爪大三郎との共著、中央公論新書大賞)、『自由という牢獄』(岩波書店、河合隼雄学芸賞)、『日本史のなぞ』(朝日新書)など著書多数。個人思想誌『大澤真幸THINKING「O」』(左右社)主宰。現在、『群像』(講談社)誌上では、世界史の論理構造を解明する評論「〈世界史〉の哲学」を、『本』(講談社)誌上では、動物社会との比較の中で「人間」の本質を考察する「社会性の起原」を、それぞれ連載中。


松田 素二氏
文化人類学者
京都大学アフリカ地域研究資料センター特任教授/特任研究員
CCI FUTURE IMPACT Forumメンバー

ナイロビ大学大学院修士課程を経て京都大学大学院文学研究科博士課程中退。
特に東アフリカ社会をフィールドにして、相互扶助や紛争解決のメカニズムに関する人類学的研究をしている。 1998年共編『新書アフリカ史』でNIRA東畑精一記念賞受賞。著書に、『日常人類学宣言!』(世界思想社)、『都市を飼い馴らす』(河出書房新社)、『呪医の末裔』(講談社)、『抵抗する都市』(岩波書店)『Urbanisation from Below』などがある。