CCI FUTURE IMPACT Forum for SDGs

各専門家からみた現在の状況とこれからの持続可能な社会について、
CCI FUTURE IMPACT Forum座長の大澤真幸氏と
あらゆる分野の専門家からなるメンバーの対談をお届けしてまいります。

今回は、前回に引き続き、
佐倉 統氏と大澤 真幸氏のスペシャル対談のPart2をお届けします。


【第3回】科学技術と社会の関係値から見る現状と持続可能な社会
佐倉 統氏 × 大澤 真幸氏
Part2(全3回):SDGsや社会の仕組みを考える上での科学の知識、知見の使いこなし方


-大澤氏:
少し各論的にお話をすると、欧米の人、特にアメリカの人はマスクをいやがる。
先程おっしゃったように、コミュニケーションの方法に影響があるということですが、特にアメリカ人の場合、政府に強制されるのがいやだということなのですよね。自分でしたいと思うのは問題ないが、政府から言われても、その行為を行うかどうかは自分の自由であるという気持ちがある。政府に対する不信感が強く、政府をできるだけミニマムにしておく。
その分、民間企業に対して自由を与えているという構造があるわけです。政府の強制力に対する抵抗は大きい。
ヨーロッパはアメリカほどではないので、いざとなったらロックダウンのようなことができたりするのですね。いざとなった場合、強制力や権威をもって行使しなければならず、移動の自由まで制限させられることがある。

最終的に、科学自体は「何をすべきか」ということを教えてくれるわけではないので、その時の権威をどう担保するかということです。皆が民主的に納得しえない場合、権威をどう考えるのか。
権威の一つの源泉は科学ということになるのですが、科学だけでは解決できないわけです。そうなった場合、どうすればいいか。

そこで、この件をSDGsに関連付けて話をしたいと思うのですが、今回はパンデミックがすでに起きているので、それに対して何か策を打たなければならないということになっています。
しかし、SDGsのような将来的な目標を考えている場合は、これから何か起きるということをいっているわけです。例えば、今、二酸化炭素を大幅に削減しなければ20年後に大変なことになるといわれたとき、まだそうなっていない状況の中で、二酸化炭素の削減を強制しなければならない。その強制力を正当化するにはどうしたらいいかということです。

一般には、科学的知識を動員しながら予想するわけですが、どうやらそれだけではうまくいかないような感じがします。この場合、科学がどのような役割を果たせばいいのか、あるいは科学に対する我々の態度はどうあるべきなのかということですごく困るわけです。  

科学に基づいて、20年後のことを言っている訳ですけれど、それを信用しない人もいるじゃないですか?しかし、今やっておかないと20年後に地球がはるかに温暖化してしまうかもしれない。取り返しがつかない状況になってからではもう遅いということになります。

科学をベースに置いたコミュニティというのはどのように意思決定をしていけば良いのかということについて、どのようにお考えでしょうか。


-佐倉氏:
ご質問に対する直接のお答えはもちろんできないのですが、今回のパンデミックの問題も、世界中の専門家は20年以上前から危ないと言っていたわけですよ。そういう映画すらできてしまったくらい、問題意識があった。
日本でも一部の国会議員も、国立の感染症研究所の予算が削られていてまずいのではないか、と言っていた。
アメリカでもビル・ゲイツが、国が予算を削って研究しないから俺が出すみたいな形でビル&メリンダ・ゲイツ財団が対応しているのです。財団ではありますがビル・ゲイツのような志のある個人のほうが、今やパブリックになっているという感じすらします。

原発事故も地震の時も以前から「地震が起こる、起こる」という話はあり、原発も「あそこの原発は本当に危ない、危ない」というのはみんな言っていた。後出しジャンケンだったら何でもいえると思いますし、簡単ですが、他にも同様なことがあると思うのです。今も実際に潜在的リスクというのはあちらこちらに存在します。

私の近くにいる情報関連の専門家は、情報セキュリティに危険が存在するということを言っています。

このように、我々の知らないところでも潜在リスクがものすごく沢山あるときに、事前に予算や人的資源も含めてどこに資源を投下するかというのは、そんなに最適に決められると思えない。多分うまくやっていて問題になっていないことも沢山あると思うのです。
しかし、そういう場合は問題になっていないので、うまく配分していても褒められないわけです。感染症や原発について危ないと言っていたのは事実なのですが、後出しじゃんけん感がありしっくりこないのですよね。

一方で、大澤さんがおっしゃった環境問題などは、現在から未来を見ているわけです。後出しじゃんけんにならない形でどのようにコミュニティ内の意思決定をしていくかということですよね。

西條辰義氏(総合地球環境学研究所・高知工科大学フューチャー・デザイン研究所長)がFuture Designということをおっしゃっています。
今の政治は民主主義で行われ、経済はマーケットの原理で成り立っている。どちらも今の状態を最適化するということに関してはおおよそうまく機能する。しかし、50年後、100年後の未来を見越したタイムスパンでの全体最適化を図ろうとするとうまく機能しない。そこをうまく機能するような仕組みを考えることがFuture Designであると西條さんは言っています。
そして、アメリカの先住民のイロコイインディアンたちの意思決定方法が、将来を見越した意思決定方法をとっていると。

また、ジャレド・ダイヤモンド(UCLA社会科学部地理学科教授)が書いていましたが、むしろ近代化する前の社会の意思決定のほうがサステナビリティや未来を見越した考え方をしていた。
もっと将来を考えるべきだと言っています。未来を見越した意思決定の要素をどのように現代の意思決定の仕組みの中に入れていくかということですよね。


-大澤氏:
ネイティブアメリカンの民主主義というのが注目されています。
アメリカはヨーロッパからニューイングランドに入っていった人達が小さなコミュニティをつくったことから始まったわけですが、実はアメリカの初期の入植者たちが民主主義をつくっていく際、コミュニティの運営方法においてネイティブアメリカンの意思決定の仕方が合理的だということで、かなり影響を受けたという研究もあり注目されているのです。
しかし、今の状況を考えたときに十分に機能するかどうかは少し微妙です。

科学的にみて予想できるリスクを超えるような意思決定ということと、我々の民主主義というのを両立させることができるのかを考えたときに、民主主義というのはかなりリスクに弱いのですよね。
どうして弱いかというと、今となれば、例えば原発事故が起きた後、原発がなければよかったとか、もっと安全対策するべきだったと思うわけですが、原発をつくるときに明示的にこれらの課題をそれほど意識できたかというと難しいですね。

もし仮に、自分が政治的リーダーだとして、政治の意思決定の最終的な決断権を持っているとします。
例えば、CO2対策を講じ、地球の温暖化対策を実行します。そして将来温暖化が起こらなかった場合、あの時のCO2対策が功を奏したから地球温暖化が起こらなかったのか、それともそもそも地球温暖化は起きなかったのか。どちらなのかわからないわけです。将来リスクを避けることはできたとしても、政治的リーダーとしての自分の政治的功績にはならないかもしれない。

民主主義というのは、基本的には現在の人たちの利害や欲求に応えなければならないわけですから、政治的リーダーたちはまず現在の自分たちにとって有利な政策を選ぶ傾向があるのです。
そういう人たちに対して、将来こういう危機があるから、今我慢してCO2を削減しましょうと言ったときに、将来確実にそうなるかどうかわからないわけですよね。仮に、運よく将来リスクが避けられたとしても、その政策のおかげで避けられたのかどうかもわからないわけです。

結局、政治家は将来のリスクのために政策を掲げても、今の民主主義の中では人気がとれないし、将来的にリスク回避ができたとしても、それが過去の自分の政策のおかげであったかを証明することもできず、歴史的にも評価されないことをやらなければならないという非常に難しい意思決定になってしまうのですね。
多くの政治問題というのは、民主主義的にやれば解決することができる――少なくとも民主主義的な決定であれば、みな納得するということがあるわけです。

しかし、このような問題は民主主義的にやって解決するのではなくて、民主主義によって足を引っ張られる可能性のほうが大きい。民主主義の前提になっているものの見方や制度を変えないとうまくいかないという感じがします。あるいは、これまでの民主主義とはまったく異なるヴァージョン・アップされた民主主義のようなものが構想できなとだめです。どのように考えればいいのでしょうか?


-佐倉氏:
公衆衛生とか環境問題などは、個人主義や民主主義と非常に相性が悪いと思うのです。
環境問題も公衆衛生も20世紀前半でうまく行ったのはヒトラーのナチス政権です。彼の思想や行動自体は、根本の考え方が間違っていたので全否定されるのですが、政策一つ一つの中身をみると、国民皆保険の導入や、環境税の導入など時代を先取りしており、個別の要素は先進的でうまくやっていたわけです。
これは象徴的なところがあって、ヒトラーを肯定するものではまったくないのですが、環境問題とか公衆衛生などの、社会共同体全体の利益になるものを追求していくということは、大澤さんがおっしゃった通り、どこかで民主主義と相性が悪いところがあるように思います。

感染症もそうですね。いわば市場主義で経済を追求して移動が盛んになったことによって起こった要素があるわけですから。そういう意味では、地球全体という規模で見ると、民主主義的にやることを100%手放しで、全部それだけでいくのがよいのだという話ではないというところまできてしまった気がします。

それでいうと、SDGsやエシカル消費というキャッチフレーズで推進するというのはなんだか表層的でどうなのかなという気がする一方で、どこかで既存の仕組みに組み込んでいくことによって、今の生活もそこそこ成り立つが、しかし環境にも良いことになっていくという仕組みにしていかないと地球全体が成り立たないところまできていると思います。
SDGsというのは何かピンとこないし、違和感があるものの、他に良い方法があるわけではない。
世界中の企業があのようなことを考えて取り組んでくれれば、少しは環境問題の解決に繋がるような気もしています。少し釈然としませんが。


-大澤氏:
SDGsの目標に対して、反対だという人はいないと思うのですよ。例えば、貧困をなくそうという目標に対して、もっと貧困が増えればいいと思う人はそうはいません。SDGsの目標はある意味みんなが合意しているわけです。
しかし、合意しているのになぜできないのかというのが問題です。
つまり、SDGsに賛成ですかといえば、ほぼ満場一致で賛成なのです。しかし、SDGsの目標を達成するのはどういうことかというと、それぞれの考え方が違ってくる。

感染症対策もそうですし、SDGsの目標に関してもそうですが、基本的には科学者がどう考えるかというのがまず一番のベースになります。
科学者が言っていることがベースとなって、このままの状態では持続可能性がないということを言われているわけですから。科学には限界があるから科学とは違う人類の英知が必要だと言う人もいるけれども、私としては科学を無視するともっとひどいことになると思っており、まず科学が重要だと思っています。

一方で、科学によって解決できる部分があるが、そうでない部分もあるというのが問題だとも思っています。科学の美点でもあり、弱点にもなるのは、科学というのは「仮説」であるということです。
例えば、宗教的な真理は仮説ではない。それを真理と受け取ることで信者になるわけです。

宗教的な真理と異なり、科学的な真理というのは、厳密には真理候補であって、仮説に過ぎない。地球が温暖化するかもしれないというのがかなり通説になったとしてもそれは仮説です。
仮説であるということは、反証可能性を残しているという意味ではないですか。例えば、温暖化目標に対してパリ協定のようなものができたとして、そこから離脱したいという国が出てくる。
その場合も、非科学的な知識に基づいて離脱したいといっているわけではない。反対する人たちも、科学的な反対の説を使って反論してくる。

仮に少数説だったとしても、反対者も、科学的な根拠をもちだしてくる。科学と科学が対決しているのですよね。以前よくあった公害に対する企業の責任を追及するときも、責任があるという人も責任がないという人も両方とも科学者を動員してくる。
素人からみればどちらも同じくらい説得力があるようにみえるわけです。ある意味で、科学が問題を解決しようとすると同時に、科学が問題解決の足を引っ張ることもある。

とはいえ、科学に頼らざるを得ないわけですから、そういうときにどうしたらいいのかなと。科学は尊重するが、科学に対する僕らの見方を考え直し、変えなければならないのではないかと思っています。
科学に基づいて頑張れば持続可能な社会がくるわけではなく、科学に基づいて持続可能性が否定される可能性もあるということだと思うのです。

科学に対する回路がまだ僕らの中で定まっていないような気がするのですが、いかがでしょうか?


-佐倉氏:
おっしゃる通りだと思います。科学的な知識、知見をどのように使いこなすかということが大事で、どう飼いならすかといってもいいのだと思います。極端にいえば、いかようにも使えるわけです。科学的にほぼ解が決まることもありますが、そうではないものが沢山ある。だからこそ現在こういう状況になっているのだと思います。

環境問題にしても感染症にしても、最終的にどのような判断をして、どのようにするかを決める際、やはり、判断をするための根拠の一つとして、科学の知識、知見があるのであって、重要ではあるものの、全てというわけではないですよね。
例えば、アパートを借りるとき、わけあり物件というのがありますよね。科学的に考えたら、お化けなんている訳ないし、安いのだから、合理的に考えればそこに住めばいいのですが、私は嫌です。 借りる条件が良いから住むかというと、やっぱり嫌な感じがするのですよ。
そういう心理的な感覚って人間は本能的に持っているわけで、そこでの快適さ、心理的な落ち着きや平穏も良い生活を送るためには重要なわけです。単に、お化けはいないという科学的な尺度だけで切り取り、その尺度だけで全く問題ないといわれても何か違うと思うのです。もちろん、科学的尺度を重視して、そこでハッピーに暮らす人がいてもいい。

最終的には、個人の価値観の選択肢の問題だと思うのです。何が大事ということを判断するときの一つの重要な拠り所は科学だけれども、それはone of themであって全部ではないわけです。

今お話ししたような場合は、利害がお互い対立しないからよいのですが、社会全体で意思決定をしなければならない場合、科学だけで決められないからこそ、いろいろな議論が出てしまうことは確かなわけです。
科学の知識の使いこなし方に関してのコンセンサスを醸成していく必要があると思うのです。
例えば、「夕日が沈んでいく」というように、我々は日常生活において天動説で暮らしているわけです。それを誰も非科学的とは言わない。
しかし、宇宙ステーションの話をする際には、天動説から地動説に切り替えているわけです。それが科学の知識を使いこなす、体系化して科学を使いこなしているということになるのだと思います。

地動説は、コペルニクスが説いてから500年位経つ長い歴史があるからこそ、社会も個人も使いこなすことができるわけです。しかし、遺伝子の話だとか疫学の話だとか、進化論もそうですが、地動説に比べたら歴史が浅いので、まだそこまで馴染んでおらず、私たちが使いこなせていないのだと思うのです。

今でも天動説が正しいという人もいますが、おおよそ社会の中で位置づけが決まっていて、利用の仕方も使いこなし方も馴染んでいる。科学の知識を早くそういう状態にしていくことが大事なのではないかなと思っています。


-大澤氏:
科学者といえば、佐倉さんのほうがお詳しいかもしれないのですが、量子力学のニールス・ボーアという優れた科学者がいます。
アインシュタインは量子力学を受け入れられなくて、「神はサイコロを振らない」と言った有名な言葉がありますが、それに対するニールズ・ボーアの反論が秀抜で、「誰も神に命令することはできないのだ」と返した。
アインシュタインに、「神に対してサイコロを振ってはならないという命令は誰もできないのである」ということを言ったという話があります。その上で思い出したボーアについてのエピソードがあるのです。

ある日、人がニールズ・ボーアの家にいったら玄関のドアにあるものが吊るしてあったので、「これは何だ」とボーアに聞いたところ、ボーアは「魔除けだ」というわけです。
ボーアは大科学者なので、「科学者なのにこんな迷信を信じているのか」と客の方が聞いたところ、「いや、俺は信じていないけれども、このお守りは信じていない人にも効く魔除けだと聞いている」とボーアは答えたという。
このときボーアは魔除けの迷信を信じているのかいないのか。もちろん、信じていることになるのです。

この話が示すように、科学者だからといって常に科学的に行動するわけではない。むしろ生活においてはそうではないのが普通です。誰もが、一番科学的に行動しないのは、葬儀の時ですね。「天国で幸せに過ごすと思います」という言葉は科学的にはあり得ないわけですが、そう言うほうがリアリティを感じるわけです。

科学者は我々以上のことを知っている。
一般の人々は、この問題の解決方法も科学者は知っているという前提で考える。
しかし大抵、本当の科学者はこれについての答えがないことを知っているわけです。例えば、我々は経済学者に対して経済政策を尋ねます。経済学者が適切な経済政策を知っているにちがいない、と。
しかし、経済の専門家がほんとうは知っていることは、経済学では確実な予測もできず、政策についての絶対の正解は出せない、ということです。
つまり、経済学を十分に勉強することでわかることは、経済学的に正しい答えではなく、経済学を根拠にして言っていることが十分な根拠はほんとうはないということです。

まして、今回のパンデミックなどは、初めて現れた感染症で、専門家にも本当はよくわからないのです。
だからこのわずか半年くらいで専門家の言うことが結構変わるわけです。
専門家に対して僕ら素人は、彼らは真理を知っているという前提で関わりますが、専門家たる所以は専門家すら真理を知らないということが分かっている、というのが真の専門家の証拠なのですよね。
自分が真理を知っているという専門家は、中途半端な専門家です。
とすると、我々が真理を知っている専門家に頼らざるをえない。ところが、実際の専門家は真理を知らないことを知っていると。
つまり、一般の人々の立場からすると、梯子を頼りにしたら、梯子はないと言われた形になってしまいます。

この時、科学というものに対して我々はどういう態度をとればいいのか?科学は当てにならないのだという態度をとってしまったらもっとひどいことになるわけで、どうしたらいいのでしょうか。


-佐倉氏:
どちらにとっても二正面作戦を慣行していくしかないのかなと思います。
ある種、傲慢で中途半端な専門家はいる。そういう者は批判しなければならない。
一方で、大澤さんがおっしゃった通り、頼りになるのは科学的な根拠しかないわけですから、専門家が信頼される仕組みや雰囲気は、何としても守らなければならない。
それと同様に「傲慢で中途半端な専門家がいるから科学は全てだめだ」と科学全体をおかしいという傲慢かつ無知な意見に対しても、それは違うと否定しなければならないと思います。
辛いですが、双方に対して二正面作戦をとらざるを得ないと思いますね。


次回 Part3は、「課題解決におけるAIの方向性とこれからの時代のレベルの在り方」についてお届けします。

【対談者 プロフィール】


大澤 真幸氏
社会学者
CCI FUTURE IMPACT Forum座長

千葉大学文学部助教授、京都大学大学院人間・環境学研究科教授を歴任。
1990年代より、理論社会学の立場から現代社会の変容を総合的に分析し、論じてきた。著書に『ナショナリズムの由来』(講談社、毎日出版文化賞)、『不可能性の時代』(岩波新書)、『量子の社会哲学』(講談社)、『ふしぎなキリスト教』(橋爪大三郎との共著、中央公論新書大賞)、『自由という牢獄』(岩波書店、河合隼雄学芸賞)、『日本史のなぞ』(朝日新書)など著書多数。個人思想誌『大澤真幸THINKING「O」』(左右社)主宰。現在、『群像」(講談社)誌上では、世界史の論理構造を解明する評論「〈世界史〉の哲学」を、『本』(講談社)誌上では、動物社会との比較の中で「人間」の本質を考察する「社会性の起原」を、それぞれ連載中。


佐倉 修氏
理学博士
CCI FUTURE IMPACT Forumメンバー

東京大学大学院情報学環教授 理化学研究所 革新知能統合研究センターチームリーダー 京都大学大学院理学研究科博士課程修了。理学博士。三菱化成生命科学研究所、 横浜国立大学経営学部、フライブルク大学情報社会研究所を経て、現職。 専攻は進化生物学だが、その後、科学技術と社会の関係についての研究考察に専門を移し、人類進化の観点から人間の科学技術を定位する作業を模索継続中。 著書に、『おはようからおやすみまでの科学』(ちくまプリマー新書)、『進化論という考えかた』(講談社現代新書)、『わたしたちはどこから来てどこに行くのか?』(中公文庫)、『現代思想としての環境問題』『科学の横道』(ともに中公新書)、『進化論の挑戦』(角川書店)、『「便利」は人を不幸にする』(新潮選書)、『人と「機械」をつなぐデザイン』(東京大学出版会)など。