CCI FUTURE IMPACT Forum for SDGs

CCI FUTURE IMPACT Forum for SDGs 第3回目は、コロナ禍でますます注目される科学技術と社会の関係のつくり方をテーマに、科学技術社会論研究者 佐倉 統氏と社会学者 大澤 真幸氏によるスペシャル対談をお届けいたします。

【第3回】科学技術と社会の関係値から見る現状と持続可能な社会
佐倉 統氏 × 大澤 真幸氏
Part1(全3回):科学技術社会論研究者の立場から見た現在の状況


-大澤氏:
佐倉さんの場合、科学分野のご専門といっても、何か一つの領域のご専門というわけではなく、社会全般を科学の立場からみていらっしゃるので専門という言い方があまりそぐわないのですが、今回のコロナの問題は、ある意味で佐倉さんの主題と非常に関係ある問題だと思います。
科学と社会の接点という中で考えられている、今回のコロナウイルス問題ほど科学の専門家が話題になることは少ないと思うのです。現状をご覧になってどのようにお考えかをお聞かせください。


-佐倉氏:
このところずっと科学技術の専門的な知識、知見技能を一般社会ではどのように扱っていくのか、どのように位置づけるのかということを中心に考えてきました。その中で、今回のことを考える上で、比較の対象となるのが3.11の東日本大震災の時の原発事故だと思っています。
福島第一原発事故の後の放射線健康リスクの問題の時も、専門家と称される人達の中で意見がすごく割れてしまい、安全だとみる向きもあれば、危ないと見る向きもありました。 それが、専門家同士の間で論争になり、専門家とはなんなのかという疑問が生じ、専門的な知見に対して、一般的な人の中でも考え方が全く異なる中で、科学的な成果だけでは割り切れない、結論が出ないということが起きました。

これは、世界的には1970年代位からずっと言われてきたトランスサイエンスという状況で、日本でも狂牛病など、さまざまな状況が存在していましたが、最も先鋭的に表れたのが原発事故の時だったと思います。

それに対して、政治家なり、経済なり、一般社会の人々がどのように対応したらいいか、「日本はこうしましょう」というしっかりとした議論ができないまま、ふわふわした形のままで、コロナに突入してしまった。

今回は、放射線ではなく感染症なので専門家の集団は違うのですが、大きな構造で言えば、専門家の知見と一般の人の認識の関係との間に齟齬がある、専門家が言っていることと政治家、一般の人たちが考えていることの間にギャップがあってうまくいかないという同じ状況が起きていると思っているのです。

しかし、3.11の原発事故の際との違いを申し上げると、今回は専門家の中にいろいろな意見はあれども、原発事故ほど大きく割れていないという状況があります。これは、感染症専門家のボリュームと放射線専門家のボリューム、人数が違うということ。また、感染症の専門家においては、新型コロナは初めてであっても、他の感染症の経験を積んできていることが挙げられます。一方、原発事故の方は、世界でも初めてといってよい状況だったということが大きく異なったと思います。

ただ、専門家が一般的な意思決定にどのように関わるのかということからすれば、整備できていない状況は変わらず、政治家はうまく差配できず、このような状況が続いているというのが現在の日本の状況だと思います。

今回のコロナのことに関して申し上げると、第一波が来た際、政府・官僚があまりにも動かず、専門家がこれではだめだということで、わっと前面に出て自らメッセージを出すようになり、それが功を奏して感染症は収まりました。
しかし、経済的ダメージが大きかったため専門家に対する批判が高まったわけです。これに対し、今現在、専門家が前面に出ざるをえなかったことに対する批判と反省があり、一方で専門家の側からも出すぎたと言われることが起き、最終的な判断は政治家がすべきだということも言われています。

確かに、専門家は各領域の専門家でしかないのだから、自分の領域から専門的な知見を提供し、それを政治家が総合的に判断するということかと思います。
しかし、政治家も意思決定すれば必ずどこかから批判されるわけです。経済を優先すれば感染者が広がり、感染者を抑えようと思えば経済が止まる。このような非常時においては、優先順位をつけてどこかを切り捨てなければならない。しかし、そうするとどこかから批判が出る。

では、政治家にすべての責任を負わせてうまく進むのかというと、政治家としても次の選挙で勝ちたいわけでしょう。そのためにやっているわけです。

世界で比較的うまくいっていると評価の高い国として、例えば台湾、ニュージーランド、ドイツのメルケル氏などが挙げられますが、基本的に政治家、あるいは中枢にいる人たちの属人的な要因や性格などで国民との信頼が取れているからうまくいっているのであって、他の国はどこであれうまくいっていないわけです。

そういうことを考えると、日本の問題だけではなく、政治家が最終的に責任を取ればいい、取るような仕組みだからと言ったところで解決する問題ではないと思うのです。

もちろん、今の日本の状態がこのままで良いという話ではありません。もっときちんと専門的な技能や知識を吸い上げ、政治決定する仕組みを整えなければならないとは思います。
しかし、その仕組みをつくったところでうまくいかず、今と同様に進まない状況が繰り返されると思うのです。
社会全体の意思決定や判断をするときに、昔と比べるとものすごく価値観も経済も政治も文化も多様化している中、昔はカリスマ的な政治家がこうだと言えばうまくいっていたのでしょうが、今はどんな判断をしても多くの人々がネットなどを通じて批判する事態が起きてしまうという状況です。

そのような中、「国」という単位がよいのかどうかも含めて、社会、共同体の意思決定をどのようにするべきかという課題があると思っています。意思決定の仕組み自体が制度疲労を起こしている気がしています。
専門家と統治権力者の関係は、その中の一つの問題要素なのだと思っています。


-大澤氏:
最適解がないですね。ダブル、いや、トリプルオプティマムといいますか、多くのことを同時に最適化するというのは不可能で、その不可能な中で決断をしなければならない。どの決断も別の観点からみれば不適切な観点になる。
そのような不可能な中で判断しなければならない。

でもこれが政治というものの使命ですね。みんな政治を批判しますが、過酷な部分があるのですよね。100%の答えはないし、良い答えがない。他の仕事であれば良い答えがないというのが結論になってもいい。
しかし、政治だけは「良い答えがない」ということで終わりにするわけにはいかない。良い答えがあるかのように振る舞わなければならないわけです。それが政治というものの過酷なところです。

それと専門的、学問的な知識、特に科学的な知識との関係を取りたいわけですが、おっしゃったように、今回のコロナは3.11のときと違った感覚がある。3.11の時は放射線専門家の中での両極の答えがあったわけですが、今回の場合は、どちらかというと専門と専門の間での立場の違いが存在しますね。
経済の専門家、疫学の専門家、倫理の専門家というように、さまざまな学問があり、それぞれの専門家からみた場合が極めて異なるので、妥協点を見つけながら解決しようとしているわけです。

私が最近気になるのは、政治家の「専門家のご意見を聞いたうえで判断します」というフレーズをよく聞くことです。ある意味責任転嫁しているように聞こえる。政治家として、正しい答えがわからないわけです。専門家が言っているという形で納得させようとしている。
しかし、専門家は政治的な判断をしているわけではないのです。
一方、当然、政治家は専門家の意見を踏まえ判断しなければならないのですが、その言い方から政治家が専門家に責任転嫁しているように聞こえる。そうなると、ますます専門というものが重要なものになってくると思うのです。

佐倉さんや私が、若手研究者としてスタートした20世紀終盤、我々の科学に対する見方というのは、近代的な自然科学はもちろん人類の英知の中で最も重要なものでしたけれども、他方であの頃はどちらかというと、科学というものは単純な一つの客観的な知識である以前に、一つの思想であり、イデオロギーであり、世界観であるという考え方であった。
だから、ある意味で科学の相対化みたいなものが進んでいた時代だと思うのです。
科学というのは今やグローバルスタンダードになっていますが、人類にとっての唯一のシステムということではなく、様々な世界観があって、しかし特定の近代、科学革命以降の西洋を中心とした世界の中で広がってきた世界観であると相対されたところがあると思います。

佐倉さんのお仕事が注目されたのもそういうところがあると思う。環境問題は現代思想である、と捉えると、環境問題はただの自然科学上の予想だけではなく、一つの思想的なコミットメントから生まれているのだという形で、科学を全体として相対化するという動きの中で、ただ科学をやるだけでなく、社会や文化との関係の中で科学を考えるという仕事の意味がすごく出てきたということです。

そのような流れの中で我々は生きてきたのですが、今回つくづく思うのは、こうなってくるとやはり頼りは科学しかないのだと。

ほんの少し昔――いや今でも――、マルチカルチュラリズムというのがあって、自然科学と様々な文化を持っている世界観を対等に扱いましょうというのがありました。
しかし、そんなことを言ったところで、科学以外のコスモロジーで疫病に対抗することはできない。
たまにエキセントリックな宗教家が科学よりも信仰を重要視し、集会を開いたためにそこでクラスターが起きて大変なんてことも起きたりします。集会も重要だけれども、まずは、クラスターを起こさないことが先決で、疫学に従って欲しいと。 どんなに宗教的に熱心な人でさえも、まず科学が先にあるわけです。科学以外に信頼できる知識はないのだと強く感じたのです。

と同時に、そう思う一方で、疫学の専門家が言う通りに動いたら社会自体が破綻するようなことをしなければならないということに対し、アンビバレントな気持ちであるわけです。
科学しか頼りになるものはないのに、科学では正しい答えを教えてくれないという厳しい状況にあるという感覚なのです。この点について、どうお考えですか?


-佐倉氏:
まさにそこです。
大澤さんがおっしゃった「科学は一番頼りになる知識だけれども、科学だけでは答えを教えてくれない」という時の「答え」というものが何か、どういうものから成り立っているのか、ということだと思うのです。
科学的にコロナに対していろいろ解ってきたことがありますね。例えば感染の仕組みがわかってきて、密にならなければよいとか。それはそうなのだけれど、そこで誰もがその基準に従っていけばハッピーかといえば、十分ハッピーな人もいるし、あまりハッピーではない人もいる。
人と会いたいとか、先程の宗教のように集まりたいという人もいるわけです。

「科学は一番頼りになる信頼できる知識である」──それはその通りで、誰もあまり疑っていないと思うのですが、それを前提にしたとしても、科学が提示する知識に基づいて生活を組み立てた場合、自分がハッピーになるかどうかというところは人それぞれで違いがあるわけです。
その時にどこまで許容されるのかという話で、ある人が守らず最終的にその人個人だけが損をするのであれば問題はないのですが、公衆衛生とか疫学の話になると、それを守らなかった人と不利益を被る人は異なるわけです。
集まってしまったことにより関係のない市民が感染したりする。環境問題もそうです。
これは、むしろ社会学の大問題じゃないですか?ワクチンもそうですよね。ワクチンを打たなかったことによって、関係のない人が感染し、社会全体に不利益を与えることになる。
当事者と受益者との利害関係者が違うというところ、そこをどこまで許容するのか、多様性を許容するのか。
これは科学が決められることではなく、社会通念や考え方で決まっていく。国や文化によっても異なるし、個人によっても異なる。
例えば、マスクをするという行為についても、欧米ではコミュニケーションの際に無意識に口元を見る習慣があり、覆い隠すことに対して拒否感があるという社会心理学の研究結果があるようですが、マスクをするかしないかという行為においても、社会の中での位置づけ、重み、価値は全く違いますよね。
どこまで許容されるかというのは、やはりその社会で決めていくことだと思うのですが、実際にトップダウンではなく、落ち着きどころのよい形で収めるために、どう決めていくのか。誰かがやるかという話なのでしょうか?
どうなのでしょうかね?


次回 Part2は、「SDGsや社会の仕組みを考える上での科学知識、知見の使いこなし方」についてお届けします。

【対談者 プロフィール】


大澤 真幸氏
社会学者
CCI FUTURE IMPACT Forum座長

千葉大学文学部助教授、京都大学大学院人間・環境学研究科教授を歴任。
1990年代より、理論社会学の立場から現代社会の変容を総合的に分析し、論じてきた。著書に『ナショナリズムの由来』(講談社、毎日出版文化賞)、『不可能性の時代』(岩波新書)、『量子の社会哲学』(講談社)、『ふしぎなキリスト教』(橋爪大三郎との共著、中央公論新書大賞)、『自由という牢獄』(岩波書店、河合隼雄学芸賞)、『日本史のなぞ』(朝日新書)など著書多数。個人思想誌『大澤真幸THINKING「O」』(左右社)主宰。現在、『群像」(講談社)誌上では、世界史の論理構造を解明する評論「〈世界史〉の哲学」を、『本』(講談社)誌上では、動物社会との比較の中で「人間」の本質を考察する「社会性の起原」を、それぞれ連載中。


佐倉 修氏
理学博士
CCI FUTURE IMPACT Forumメンバー

東京大学大学院情報学環教授 理化学研究所 革新知能統合研究センターチームリーダー 京都大学大学院理学研究科博士課程修了。理学博士。三菱化成生命科学研究所、 横浜国立大学経営学部、フライブルク大学情報社会研究所を経て、現職。 専攻は進化生物学だが、その後、科学技術と社会の関係についての研究考察に専門を移し、人類進化の観点から人間の科学技術を定位する作業を模索継続中。 著書に、『おはようからおやすみまでの科学』(ちくまプリマー新書)、『進化論という考えかた』(講談社現代新書)、『わたしたちはどこから来てどこに行くのか?』(中公文庫)、『現代思想としての環境問題』『科学の横道』(ともに中公新書)、『進化論の挑戦』(角川書店)、『「便利」は人を不幸にする』(新潮選書)、『人と「機械」をつなぐデザイン』(東京大学出版会)など。